部屋と演劇vol.1
『複声にうつしてみる』レポート


「語りえぬもの」をいかに語るか。この難題に中村大地は自身が作・演出を務める屋根裏ハイツの舞台でこれまで何度も向きあってきた。
今回の『部屋と演劇vol.1』で上演された『複声にうつしてみる』では、それが当事者の声と外部をめぐるマージナルな作品として立ち現れていた。

冒頭、パイプ椅子が舞台上に運びこまれてくる。椅子は二脚、中央の奥と客席からみて右手よりの前方に置かれた。中央の椅子は客席と正対し、手前の椅子は正面をもう一方の椅子のほうに向けられている。
そこに出演者の橋本清と佐藤桃子が登場する。
「じゃあ、はじめます」
橋本は中央に置かれた椅子に腰をおろすと、身体の軸を佐藤が着席しているほうに向け、そう呟いた。佐藤も小さくうなずく。それを確認した橋本が手にしたスマホの画面にテキストを表示させ、声にだして読みあげはじめる。

本作では、このふたりが椅子に座った状態でテキストの断片を交互に一度ずつ読み、相手はそれを聞く。そして観客はその様子を客席から見ている。照明・音響による効果や小道具の使用、舞台裏への出ハケも一切ない。

中村はなぜこのような削ぎ落とされた演出を選択したのだろうか。また、いったい何をそこで試みようとしていたのか。
中村の演出と「声」の関係に注目しながら振り返ってみたい。


『複声にうつしてみる』リハーサル風景(1)

聞き書きを戯曲に

今回、使用されたテキストは、中村が書いた『七かまどに雪帽子』という戯曲である。
本書はふたりの登場人物による会話劇となっている。障害者支援施設「ひまわり園」に暮らす島田さんと、彼女の話を聞きにくる山口。ふたりは初対面である。島田さんは障害の影響でベッドに横たわっていて、幼少期から現在までの出来事を山口に語って聞かせる。一方の山口はそれを聞きながら、相槌をうったり質問をしたりする。
場面はふたりが話している部屋に固定され、時間や空間が移行することはない。

当初、中村はこの戯曲を使って、いかにモノローグ(ひとり語り)を上演するかを試したいと語っていた。けれど、そこから稽古をとおして、テキストをいかに読み、場にひらくかということに目的がシフトしていった。それは期せずして、この戯曲が聞き書きによるものであることが少なからず影響したようだ。

今年の二月、STスポット横浜の福祉事業の一環として中村はある障害者支援施設で暮らしているひとりの女性のもとを訪ね、インタビューをおこなった。一人の利用者のお話から物語を立ち上げ、その人の生活に関わる職員の方々と共有することで、施設での日々の関わりにつなげたい、というのが目的だった。結果としてそれは『七かまどに雪帽子』という一冊の戯曲となり、後日製本したものを手渡し、その場で施設職員の手によって朗読もされた。

本書は、このような経緯から生まれたため、公開されることは前提とされていなかった。けれど、戯曲を手渡した際に、ご本人から「この本を売ったらいいよ」と言われたことで、今回の企画のテキストとして使うことにつながったのだという。
ちなみに、聞き書きした内容をもとにしてはいるが、場所や人物の名前などのディテールは変更している。

二重の所属先

こうして『七かまどに雪帽子』は上演のテキストに選ばれた。
中村は演劇作家の顔とは別に、一般社団法人NOOKのメンバーとして、さまざまな人々へ聞き取りをしたり、震災10年目の際に公募した手記の朗読を手掛けたりしている。もしかすると、テキストの背後にいる語り手の存在(当事者性)への関心があったのかもしれない。
とはいえ、聞き書きした言葉を上演するのは、今回が初めての経験だったという。
演劇を介して当事者の声とどう向きあうか。この手ごわい問いを引き受けることになったのは、中村だけでなく出演者のふたりも同じである。

「事故があって障害を負ってから、茨城県の病院で十六年間入院してました」
観客の視線をあびて、橋本が口をひらく。抑制のきいた調子で島田さんが語った(であろう)言葉を声にしていく。

出演者はこの戯曲から自分で抜粋した島田さんの台詞を、一人称の語りとして再現することになっている。それはつまり、手にしたテキストをただ読みあげるのではなく、聞き手に向けて発語することを意味する。この場合の聞き手とは、相手役の佐藤となる。
橋本は言葉の意味に寄り添いすぎず、よそよそしくもならない距離感を保とうとしているように見えた。
それを受ける佐藤も真剣に橋本の話を聞いている。

橋本がテキストを読みおえると、今度は佐藤が立ちあがって、橋本と席を交換する。
「……わたしの生まれはアメリカ……」
「わたし」という言葉を発するとき、佐藤は左の掌を自分の胸にあてる仕草をした。

稽古場で佐藤は「慣れてきたらテキストの比重がうすまって、自分に近づけすぎてしまった」と自身のパフォーマンスについて語っていた。
現代演劇において、俳優は二重の所属先を持つといわれる。演じられている役と演じている役者。
本番での佐藤は両者を綱渡りするように微妙なバランスで維持しようと努めていた。

今回の企画では、上演に向けてのリハーサルは、各チームそれぞれ一日しかなかった。そうした制約のなかで、中村たちは、テキストを「語る/聞く」という作業を繰り返しおこなっていた。出演者のひとりが話し手に指名されれば、もう片方は聞き手となって、用意したテキストのまとまりを最後まで発話する。
中村が演出として、途中で割って入ったり、アウトプットされた表面上の声や仕草に言及したりすることはほぼない。テキストを読みおえた段階で、話し手と聞き手が意識していたことなど、内的な作業や気づきについて問いを投げかける。

ある場面で、「目の前の《いまここ》に意識が引っ張られると、(島田さんの)声が失われる」と橋本がこたえると、「観客の意識がテキストのイメージに向いている時間をもっと長く持たせられるようにしたい」と中村は説明した。

こうしたやりとりをふまえ、「読んでいるときの意識を少しずつ客席に向けていく」「聞き手が話の途中で退場して、そこにいない相手に向かって話し続ける」など、新しい条件を加えて、もういちど試すのだ。仮説と検証を繰り返すそのスタイルは、『部屋と演劇』の3チームのなかでもっとも「実験」という言葉がしっくりくる。

語られる言葉はベッドに横たわっている島田さんのものだが、舞台の上の橋本や佐藤は、それをなぞるようなことは決してしない。このとき、目からの情報(身体)と耳からの情報(言葉)が衝突する瞬間がある。すると、ひとつの安定した解釈は拒否され、観客は宙吊りの状態となる。
ここに単一の意味を複数にひらく、中村の演出的実験の萌芽が垣間みられた。


『複声にうつしてみる』リハーサル風景(2)

なぜモノローグなのか

当初の予定では、中村はいかにモノローグを上演するかを試すつもりだったと、先ほど記した。モノローグとは、俳優が(往々にして長台詞を)観客に語りかけるように発話する演技様式を指す。そもそも、なぜ中村はモノローグに挑もうと思ったのか。

中村は大学時代、仙台で屋根裏ハイツを結成した。
屋根裏ハイツは現在でこそ会話劇のイメージが強いが、初期の頃はモノローグで構成された芝居をしていた。
「客席を無視する演劇が好きではなかったのもあって、チェルフィッチュのモノマネみたいなことをしていました」と当時のことを中村は冷静に分析する。
転機となったのは、民話を題材にした2016年の『再開』という作品だった。

2015年末、せんだいメディアテークでは『対話の可能性 物語りのかたち 現在(いま)に映し出す、あったること』という展覧会があり、中村はそこでみやぎ民話の会による東北の伝承民話の記録活動に出会う。
「よき聞き手がいなければ、よき語り手は生まれない」
民話採訪者であり、みやぎ民話の会顧問である小野和子氏の言葉だ。
こうした言葉をヒントにしながら中村は、「一方的に言葉を観客に投げているだけではだめで、聞き手という存在の重要性に気づいた」と語る。
その後、劇団員の渡邉の提案もあって、屋根裏ハイツの作品は部屋の一室を舞台にした静かな会話劇へと舵をきる。

一見すると、ここで中村はモノローグから離れたように見える。だが、じつはそうではない。
中村の書く戯曲は、なんてことのない冗長なやりとりが繰りひろげられたかと思うと、ひとりが回想しながら延々と喋りつづけ、周囲の人々は語りを聞き、その情景をただ想像しているという場面が頻繁に挿入される。
一貫して中村は、こうした語り手のいる空間に左右されずに過去や未来の風景を描きだす方法を模索している。いかに語り手の言葉を聞ける仕組みを演劇でつくるか。それが中村の考えたいことなのだ。モノローグは、その最良の手段といえるだろう。

声の複数化

では、語り手の言葉を聞ける仕組みは、上演においていかに実践されたのか。

中村は直前まで、舞台上に設置した座席に観客を何名か移動させようとしていた。それは当日の進行台本にも記されている。
だが結局、中村はそれを選ばなかった。なぜか。それは、場をひとつの「声」に収斂させるのを避けたかったからではないか。

リハーサルでは、本番を想定して出演者と観客が車座になった状態での稽古が行われていた。その様子はまるで「哲学カフェ」や「オープンダイアローグ」を思わせた。
たしかに、それらの現場では安心・安全が約束され、リラックスした状態で相手の話を聞くことができる。
けれど、その場にいない島田さんの声に、劇場にいる全員が耳を澄ますとしたら。それは演劇の上演とは別ものになる可能性を孕んでいる。

そこで中村がとった戦略が「声」の複数化である。
モノローグとは、一人称の語りのことである。その声を閉じることなく、他者にひらいていくとはどういうことか。本作が『複声にうつしてみる』という題名だったことを思いだしてほしい。ここでの複声とはコーラスのことではない。

戯曲はまず、橋本と佐藤によって抜粋され、二種類のテキストとして再編された。そこに重なりとズレが生まれる。そして、ふたりの身体を媒介させることで、単数の声は複数の声へとうつされる。
さらに、語りそのものにも、聞き手の存在によって、かすかな「ひずみ」をほどこす。これは語り手(スピーカー)による解釈とは異なる次元で遂行される。
いわばCDが人間の可聴域に絞って録音されているのに対し、レコードはその外部の音域やノイズまで拾っているようなものだ。
中村はじっさい演出において「声」という単語をよく使う。これはもしかすると、中村が大学時代に演出よりも先に音響をしていたことと関係があるのかもしれない。

単一な声から複数の声へ。本作の核にあるのは、この微細な響きの変化によって、語られている内容から語られていない声を抽出する試みだったように思われる。

哲学者、ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」といった。だが、おそらく中村はそう考えてはいない。
中村にとって演劇は「語りえぬもの」に接近するための経由地であり、だからこそ、黙することなく「死者」や「震災の記憶」といった形而上的な問題にもこれまで果敢に取り組んできたのだと思う。
語り手の声からこぼれた声を聞く。そのための演劇を中村はこれからも実践していくことだろう。






取材・文 萩庭真



【プロフィール】
中村大地(なかむら・だいち)
劇作家、演出家。1991年東京都生まれ。東北大学文学部卒。在学中に劇団「屋根裏ハイツ」を旗揚げし、8年間仙台を拠点に活動。2018年より東京に在住。人が生き抜くために必要な「役立つ演劇」を志向する。『ここは出口ではない』で第2回人間座「田畑実戯曲賞」を受賞。「利賀演劇人コンクール2019」ではチェーホフ『桜の園』を上演し、観客賞受賞、優秀演出家賞一席となる。近年は小説の執筆など活動の幅を広げている。一般社団法人NOOKメンバー。2020年度ACY-U39アーティストフェローシップ。
https://yaneuraheights.net

【上演クレジット】
部屋と演劇 vol.1
『複声にうつしてみる』
演出:中村大地
出演:佐藤桃子、橋本清
2023年8月24日(木)
詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=10103

【出演者による振り返りトーク】
部屋と演劇のポッドキャスト『部屋と演劇 vol.1 をやった(!) 佐藤桃子 × 橋本清』

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