部屋と演劇vol.1
『帰る(帰れ)』レポート


「ひとりの人間がなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる。演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。」

演出家のピーター・ブルックは演劇論集『なにもない空間』の冒頭で、このように述べている。
本書が出版されてから半世紀。この言葉の持つ力強さはいまだに衰えてはいない。
それを証明してくれたのが、福井裕孝の『帰る(帰れ)』である。

本作は、「家に帰る」という日常的行為のシミュレーションが舞台上で展開されるミニマムなパフォーマンスである。
出演者は中川友香と南風盛もえのふたり。南風盛が会場であるSTスポットから自宅までの道のりを再現し、その横で中川がそれを見ている。
本作において、福井はこれだけで演劇を立ち上げてみせようとする。

『部屋と演劇vol.1』で各チームに与えられたリハーサルの時間はわずか一日。顔合わせから本番まで、そこでは何が行われていたのか。
福井たちの創作する姿を追った。


『帰る(帰れ)』リハーサル風景(1)

配置と移動

福井は京都を拠点に活動する演出家である。
彼の作品において、人・モノ・空間のモチーフは重要な位置を占めている。
2018年から再演を続けている『インテリア』では、家具や家電、日用品を床に配置することで舞台を居住空間である部屋に見立てた。この作品で福井は物語性を排し、モノの移動によって変化する日常生活のルーティンを描いている。

人がモノを動かしているのか、モノによって人が動かされているのか。
私たちは自分の意思で行動しているつもりでも、その背後にある規則や統治のシステムによって管理されてもいる。また、とかくその事実を忘れがちでもある。 それがモノの配置と移動によって詳らかにされるかのようだ。
いわば福井の演劇は、「物に語らせる」ことで成り立っている。

そして『帰る(帰れ)』でも、引き続き、モノは重要なマテリアルとして登場する。
当初、福井はモノを持ちこむつもりはなかったそうだが、結果的には、俳優たちに家にある私物を選んで持ってきてもらうことにした。
また、本作ではカバンの種類についても要望を伝えた。家から持ってきて、持って帰る道具としてのカバン。福井はそこにもこだわりをみせた。

一方で、今回は新しい試みも取り入れている。
これまでは、部屋という一箇所に舞台が設定されていたのに対し、本作では「移動時間」が扱われる。それが「帰る」ということである。
このことは『インテリア』でも「モノを持ってきて、持って帰る」というかたちで作品に組みこまれていた。それが本作で、「いまここから家に帰る」へと焦点化した。今回、なぜ福井は「帰る」ということをテーマに据えたのか。

福井はふだんの生活で「あとどれくらいで帰れるかしら」と頭の中で意識しながら過ごすことがよくあるという。たとえばそれは、会食のおひらきのタイミングや、仕事中であれば退勤の時刻、客席で芝居を観ている間も終演後のことを想像する。
よって、劇場で上演するときは、観客がそこで何を見て、何を得るかよりも、それをふまえてどう帰るかに思考が向かうのだそうだ。

「vol.0では、持っている手札を使って、小手先で作ってしまった部分がありました。今回は、これまで積み上げてきたことも使いつつ、新しいことに取り組みたかった」と福井は語る。
移動とモノの配置。この二つがどのように組み合わさって作品となったのか。
まずはリハーサルの様子から見てみよう。

俳優の領分

福井の演出は、ミザンスの一言に尽きる。
ミザンスとは、舞台上での俳優や美術の立ち位置のことである。
リハーサルでは、福井から作品全体の構成と俳優にしてほしい作業が伝えられ、その微調整が行われていた。
冒頭、南風盛と中川が客席正面を向いて並び立ち、短く会話をする。その後、南風盛が自宅の部屋に帰るまでを実演してみせる。舞台上を右から左に横切り、壁の前で立ち止まる。そして足踏みを始めた。おそらく階段を降りているのだろう。

福井はふたりに台詞を話し終えるまでのタイムをいまの倍にしてほしいと伝えた。
さらに、動きだすきっかけや視線をはずすタイミングにも指示を入れる。
それを受けて、南風盛と中川はもういちど同じ工程をおこなう。こうして細かい修正が加えられていく。

一方で、福井は俳優の内面的な部分には踏みこまない。なぜ動くのか、何を意識するかは俳優に委ねられている。この点は、かなり徹底されていた。
それは福井が演劇を始めた頃からの一貫したスタイルだという。大学時代、作・演出をした『ピントフ』では、(10秒)といった時間の指定を戯曲に書きこんでいた。
「時間は正確で平等だ」と語る福井の演出は定規で引いた線のようにピシッとしている。

ところが、ある場面でその福井が言いよどむ瞬間があった。
それは、南風盛の台詞の語尾のトーンに対して、福井がもう少し明るくしてほしいと言っていたときだった。おそらく福井のイメージとズレがあったのだろう。とうぜん、南風盛もすぐそれに合わせてくる。
だが、福井は歯切れが悪そうだ。自嘲気味に「いちいち言い方を指定する演出家ってどうなんですかね」ともらしている。どうやら福井には演出の言葉選びの基準となる線引きがあるようだ。

かつて福井は台詞の聞こえ方の印象を外から規定していたこともあったという。だが「それなら俳優の仕事は?」と疑問をもち、そういった演出は避けるようになった。その代わり、俳優とは別の可能性を探るすりあわせの時間を持つようにしている。
けれど、今回はその時間を確保することができなかった。それが先ほどの言いよどみの原因だったのだろう。

福井は俳優と演出の領域を分けている。それは俳優を尊重しているからこそだ。
帰りの道を歩いているイメージを俳優がどう圧縮したり省略したりしているか。それは任せたうえで、外から「そこはもう少し時間をかけて」と調整をはかる。
「イメージを外から付け足すこともあるが、それだと自分のイメージ通りにしかならないのでなるべくしたくない」と福井は語る。


『帰る(帰れ)』リハーサル風景(2)

常時接続の時代

舞台上に横並びに立つふたりの女。

先輩「ちょっとシミュレーションしておきたいから、私が今から帰るところ見ててもらっていいですか?」
後輩「うん」
先輩「ありがとう」

『帰る(帰れ)』上演台本より



そう言い放つと、先輩は家までの道のりを帰る動作をおこなう。
後輩はそれを見ている。劇的なことはなにひとつ起こらない。

本作では先輩を南風盛が、後輩を中川が担当した。
それにしても「私が今から帰るところ見ててもらってもいいですか?」と言われたら、ひとは「え、なんで?」となるのではないだろうか。「なんで見てなきゃいけないの?」と思うのが自然であろう。
だが、それに対して後輩は「うん」と返答する。平然と「帰るところ見てて」という先輩の面の皮の厚さもさることながら、それを受け入れてしまう後輩も「そんなに嫌ってはっきり言えないものなのか?」という気にさせる。

帰ると宣言した南風盛は、しばらく突っ立ったまま動かない。彼女が帰るイメージを立ち上げている時間を観客はただ見ている。それは何かを待つ時間だ。観客に内省的に問い返す、反芻している時間を与える。ここに福井の演劇の見所がある。

南風盛が左手の拳をスッと肩より上に持ちあげる。どうやら電車に乗っているようだ。中川はそれにチラッと視線をおくる。こんな調子で、終始、南風盛の挙動を中川は言われたとおり見ているのだが、集中力が続かなくなると手をぶらぶらさせたり、屈伸をしたり、よそ見をしたりする。やはり中川も見ているのがつらいのかもしれないと思う瞬間だ。

駅で降りて、買い物をすませると、自宅のドアを開けて部屋に入ってくる南風盛。
だが、そこで終わりではない。今度はキャリーバッグを持ってきて、なかから日用品を取り出し、並べ始める。ハンドタオル、化粧水、置き時計、ブラシ、充電ケーブル、インスタント麺の袋など。しだいに南風盛の部屋の間取りが再現されてくる。
それらを並べ終えると、南風盛は横になってスマホをいじりだしてしまう。

電車に乗り、買い物をして自宅に帰り、部屋でくつろぐ。ごくごくありふれた行為であり、なにひとつ特別な出来事が起こるわけではない。それを観客は客席から見ている。いったい何を見せられているのかという疑問が湧いてきてもおかしくない。
けれど、たしかに私たちはこうした他者のプライベートを覗くことを望んでもいる。大衆のパパラッチ的な欲望があるからこそ、週刊誌は売れる。また、SNSでは芸能人やインフルエンサーから一般人までが、自身のファッションやモーニングルーティンなど、私生活をみずから拡散させてもいる。
部屋で先輩が覗きこんでいるスマホの画面にそうした投稿が流れていてもおかしくはない。彼女もまたそんな世界に憧れているひとりなのかもしれない。

私たちの生活はメディアに囲まれ、街を歩けば広告が洪水のように溢れているし、電車に乗れば大半のひとがスマホの画面に夢中になっている。
いわば、私たちは常時接続の時代を生きているのだ。

劇場の客席にいる間は、そんな日常から切断されることができる。現代ではそれは貴重な経験となっている。
「移動時間」もまたかつてはそうであった。目的地へ向かう時間や、そこから帰路につく時間。そこでひとは思考を自由にめぐらすことができたはずだ。
福井は、観客がそこで何を見て、何を得るかよりも、それをふまえてどう帰るかに着目していた。それは「移動時間」に劇場と共通するものを見出していたからなのかもしれない。

複製される習慣

「待つ」ことはエンタメにもなりうる。
2016年、TBSのバラエティ番組『水曜日のダウンタウン』にて「『待て』と言われた時 さすがに人なら犬より長時間待てる」説という企画が放送された。ロケバスの車内でスタッフから「少々お待ちください」と言われて、どれだけ待てるかを検証するといった内容である。

本作で待つ人の役割を担ったのが、中川である。
帰るシミュレーションをすることを、福井は「コント・イン」すると呼んでいた。
南風盛はコント・インするが、中川は基本的にSTスポットの舞台上にいて、観客たちと空間を共有していた。南風盛が帰るのを理不尽に見続ける中川。彼女がいることで、本作が格段と見やすくなっていたことは間違いない。
けれど、終盤、中川は待つ人ではなくなってしまう。南風盛が帰路につき、自宅で寝転ぶと、彼女もまた家に帰る動作を始めるのだ。
それは、中川もコント・インしたのかもしれないし、南風盛が帰るところを見届けたので、物語が動きだしたのかもしれない。どちらの解釈も成り立つ。

南風盛と同様、自宅に着いた中川はトートバッグから日用品を並べて、自身の部屋を再現しだす。中川のモノがテリトリーを侵犯して、ふたりの部屋が混在する。そこに配置された生活用品は、どれも大量生産によって複製された商品だ。
それは私たちが帰る家そのものでもある。私たちの生活は複製によって埋め尽くされている。
それは行為も同じだ。南風盛の帰るためのシミュレーションは中川に伝播し、複製されてしまう。コピーのコピーが出回り、もはやオリジナルは存在しない。

福井作品において、人はモノと同列に扱われる。それは彼の目にはどちらも複製された存在に見えているからなのかもしれない。
福井はコピーが氾濫する時代の演劇を見据えている。だとすれば、本作もいずれ福井の手によって複製される運命にあるだろう。






取材・文 萩庭真



【参考資料】
創作にあたってのメモ

【プロフィール】
福井裕孝(ふくい・ひろたか)
1996年京都生まれ。演出家。人・もの・空間の関係を演劇的な技法を用いて再編し、その場に生まれる多層的な状況を作品化する。近作に『インテリア』(2020,2023)、『デスクトップ・シアター』(2021)、『シアターマテリアル』(2020,2022)など。2022年度よりTHEATRE E9 KYOTOアソシエイトアーティスト。
https://www.fukuihirotaka.com

【上演クレジット】
部屋と演劇 vol.1
『帰る(帰れ)』
演出:福井裕孝
出演:中川友香、南風盛もえ
2023年8月24日(木)
詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=10103

【出演者による振り返りトーク】
部屋と演劇のポッドキャスト『部屋と演劇 vol.1 をやった(!) 中川友香 × 南風盛もえ』

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