部屋と演劇vol.1
『お盆の台風、停電の朝(分身してみよう2)』レポート


「死」を演劇において扱い切ること、演劇において新たな「葬式」を創出すること。

野村眞人のプロフィールに書かれたこの一文の意味がはじめよく理解できなかった。人当たりもよく、気さくな人柄の野村本人とどうしてもイメージが結びつかなかったのだ。

野村は京都を拠点に活動するアート・コレクティブ「レトロニム」に所属する演出家である。「レトロニム」は、2022年に「劇団速度」から改名された。野村個人としては、庭劇団ペニノの近作に出演しており、海外ツアーにも頻繁に出かけている。

「死」を演劇において扱い切るとはどういうことか。演劇における新たな「葬式」とは何なのか。
その謎を少しでも解き明かすべく、今回、野村が発表した『お盆の台風、停電の朝(分身してみよう2)』(以下、『分身2』)について、書き記してみたい。


『お盆の台風、停電の朝(分身してみよう2)』リハーサル風景(1)

物語を書く

『部屋と演劇vol.1』に臨むにあたり、野村は初めて台本を書いた。
これまでは既成戯曲か、あるいはパフォーマーの行為を箇条書きにした指示書を設計図として使用してきたため、自身で場面を設定して台詞を書いたことはなかった。 それがなぜ今回は台本を書くことにしたのか。

「パッ(と作って)ワッ(とやって)サッ(と帰る)」

要因のひとつは、この『部屋と演劇』が掲げるスローガンにあった。 「パッと作る」とあるように、今回、野村たちはリハーサルを各チーム、一日と決めていた。一方で、出演する俳優の数を一名から二名に増やしてもいた。
そうなると、いつもの創作スタイルでは時間が足りなくなる。そう考えた野村は、短時間で俳優とイメージを共有するための手段として、台本を用意することにした。 つまり、外的な制約から筆をとることになったわけだが、そのドラマツルギーは彼の作家性をよく表していたように思う。
鍵となるのは「不気味なもの」と「家族」だ。

『分身2』は、何層もの入れ子構造になった、ふたり芝居の回想劇である。
物語は、Aが停電の日の出来事を思い出すところから始まる(台本だと登場人物には名前が記されておらず、アルファベットで表記されている)。
その日、AとBが暮らす家は、昨夜の台風の影響で停電していた。陽光が差しこむ室内でコーヒーを飲むふたり。部屋は静まりかえっていて、心なしかふだんより物音が大きく聞こえる。
そんななか、ふたりは部屋にまつわる思い出を語りあっている。そこから場面は部屋と思い出の時間を往復していき、やがてふたりは糸を辿るように記憶の深淵へと潜っていくことになる。

物語は、野村の実体験をもとに書かれている。野村は過去の作品で他者のエピソードを扱ってはいたが、自身の経験を作品に取り入れたことはなかった。ある心境の変化がそこにはあった。
近年、野村はヨーロッパに滞在していて、自分の居場所について考えることが多かったという。そこで、今作では自分自身のことを題材にしてみたいと思った。取りかかると、幼少期の記憶は抵抗なくスラスラと書くことができた。

『分身2』というからには、『分身1』も当然ある。昨年、京都で実施された『部屋と演劇vol.0』で発表した『(なぜか鮮明に覚えてるシーンを使って分身してみよう!)』という作品である。本作はその続編にあたる。とはいえ、引き継がれているのは直接的な内容ではなく、その手法だ。

分身する自己

リハーサルは和やかな雰囲気で進行していた。
野村作品に出演するのは、永瀬安美、藤家矢麻刀である。

藤家が自分の住んでいる部屋の間取りを永瀬に説明している。ベッドにテレビ、クローゼット、襖や窓からの景色など、位置関係を指さしながら細かく描写する。すると、しだいに藤家がルームシェアしている一軒家の様子が浮かびあがってくる。

それを永瀬はただ聞いているのではなく、藤家の言葉によって動かされながら、身をもって「藤家」として聞いている。藤家が「ぼくは姿見のほうを向いて」と言えば、永瀬は姿見が置かれているだろう方向に顔を向ける。

これが野村の作品の根幹となるワークのようだ。野村はそれを「分身」と呼ぶ。

俳優はみずからの部屋にまつわる思い出を一人称視点で語りなおす。
藤家は、窓辺で煙草を吸っていた際に、突如、迷いこんできた珍しい虫の話。永瀬は、うすい壁を隔てた隣人との騒音をめぐる攻防の話。
どちらも平凡で些細な出来事から、日々の嬉しさや驚きが滲む。本人が体験したことなので、語り口にリアルさを感じさせる。
これらのエピソードは野村の台本に挿話され、本番でも披露された。

「分身ゲーム」において、語りは一人称でなければならない。けれど、それはあくまで目の前にいる相手に言葉を貼りつけながら喋らなければならない。

俳優たちが俯瞰した視点から語ろうとすると、すかさず野村が声をかける。
小説では世界を外側から描写する文体は「神の視点」と呼ばれる。だがそうではなく、野村がこだわるのは、あくまで一人称。そのときの本人の実感を丁寧にすくいあげていこうとする。
「ここがキッチン」は「ジャー、キュッ」と擬音語に訂正された。野村はこうして「思い出している状態」そのものを見せようとする。

一方で、言葉は自分から引き剥がさなければならない。少しでも意識が自分に向いていると、野村から「相手の視線はジャックしておいてほしい」と要求がとぶ。
これを野村は「(自分が)ふたりいる奇妙さ」と表現していた。

リハーサルの前半は、この「分身」のためのワーク。後半が台本の立ち稽古にあてられた。俳優のふたりは、この「分身ゲーム」のルールを稽古で繰り返しながら探っていく。
この方法論を、物語の思い出を語る場面に応用させることで、『分身2』は成り立っている。

本作において、「分身」は物語の文法であり、修辞でもある。
「分身」とは何か。なぜ野村はこのような方法論を試すようになったのか。
野村には、その動機となる原体験があった。


『お盆の台風、停電の朝(分身してみよう2)』リハーサル風景(2)

津軽への墓参り

三年前、野村は青森県の津軽を訪れていた。
目的は先祖の墓参りだった。津軽は母親のルーツとなる土地で、そこに先祖の墓があると聞かされていたが、墓参りをしたことはなかった。
墓がある小さな村に到着すると、野村は母親に連絡をとる。だが、母親は墓の場所を知らなかった。墓参りに来たのに肝心の墓が見つからない。
そこで母親の助言で親戚や村で唯一の床屋にあたってみるが、こちらも有力な情報は得られなかった。
だが、ようやく野村の叔父が三年前まで墓参りに行っていたという手がかりを掴むことができた。
さっそく、埼玉に住む叔父に野村は電話をかける。すると、叔父は足を悪くしてから墓参りに行けていないことがわかった。そこで電話口の叔父に現在地を伝え、墓の場所まで道案内してもらうことにする。
こうして叔父の記憶を頼りに歩みを進め、野村はみごと目的地まで辿りつくことができた。

ひとり、野村が墓の前に立つ。すると、受話器の向こうから「そうか、いまお前はそこにいるのか」という叔父の声がした。
それを聞いたとき、埼玉にいる叔父の分身が一瞬で飛んできて、野村の横に立っている気がした。

野村にとってこれは強烈な体験として記憶され、それをどうにか演劇化しようと試みてきたという。
記憶をひとりで立ちあげるのではなく、傍らに誰かがいて、その誰かを自分だとすることで、周りの人物や状況を思い出していく。そうすると、自分がふたりいるように見えてくる。
野村は、それを「分身」と名づけた。この方法論は演劇だけでなく、インスタレーションの展示など、さまざまな形式で試行錯誤してきた。

「分身」について、野村は「自分のことを思い出すためにあなたがいる(いてほしい)」との想いから起きる現象だと説明する。

不気味なもの

一方で、「分身」とは、自分がふたりいる奇妙さを想起させる。単一の自己が揺らぐ感覚。これを「不気味なもの」と仮定しよう。
1919年に精神科医のジークムント・フロイトは同名の論文を書いている。この論文でフロイトは、「分身」は「不気味なもの」の表現において頻出するモチーフだと記している。「不気味なもの」とは、ひとが無意識に抑圧しているものが反復してくるときの感覚のことを指す。

冒頭、コーヒーを沸かしながらの「お盆だねえ」「そっか、明日送り火だね」というやりとり。その穏やかなトーンとは裏腹に、死者の気配が通奏低音として流れてくる。
そして、登場人物のふたりは「分身ゲーム」を繰り返すことで、安定した現在という立ち位置を失い、記憶の階段を降りていくことになる。

そこで暗示されるのは、家族の物語だ。

物語の後半、藤家が永瀬の手を握り、幼い頃の記憶について語る場面がある。
藤家の「分身」となった永瀬は、語り手の少年時代を演じる。反対に、語り手である藤家が自身の母親を演じることになる。

誕生日プレゼントをジャスコに買いに行く道中。期待に胸ふくらませた少年は、母親の手を引っ張って前を歩く。それは語り手である藤家が逆に永瀬の後ろを歩くことで表現される。

「ここ座って待っていようか。もうちょっとで来ると思うから」
そう言い残して母親(語り手=藤家)は立ち去る。声を出すこともできない。一瞬、「子捨て」の恐怖がよぎる。
そこに不意に「久しぶり」と現れる父親。この父も語り手である藤家によって演じられる。父親は少年を抱きかかえ「たかいたかい」をしようとするが、藤家は永瀬の身体を持ちあげることができない。そこで、両膝を地面につけ、腕を伸ばして永瀬を「たかいたかい」しているような格好となる。
「語り手のぼく」と「過去のぼく」の視線が交差し、しばしふたりは見つめあう。

「自己/他者」「部屋/記憶」「現在/過去」「生者/死者」といった境界が「分身ゲーム」によって曖昧化される。『分身2』の登場人物たちは、いまどこにいるのか、生きているのか死んでいるのかも不確かな存在とされていく。

野村の演劇に漂う死の気配、家族の物語への執着。そこに「分身」の「不気味さ」の問題が重なる。
それは過去の記憶を思い出すためには他者が必要とされ、その一方で、他者によって私という自己が解体されてしまう契機も孕んでいるという矛盾である。

この二律背反的な薄気味悪さは野村独自のものであり、今後の作品では彼のこの幻視的妄想力がさらなる変貌を遂げていることだろう。






取材・文 萩庭真



【プロフィール】
野村眞人(のむら・まさと)
レトロニムの演出家。京都を拠点とする。演劇は引用可能な制度であると考え、ひとの精神のありようや経験をモチーフとする作品を劇場内外で制作している。こまばアゴラ演出家コンクール2018最終上演審査選出、利賀演劇人コンクール2018観客賞、優秀演出家賞受賞。大森靖子ファンクラブ会員。また、俳優として村川拓也演出作品や庭劇団ペニノなどに参加し、国内外での出演経験多数。
https://theatre-sokudo.jimdofree.com

【上演クレジット】
部屋と演劇 vol.1
『お盆の台風、停電の朝(分身してみよう2)』
演出:野村眞人
出演:永瀬安美、藤家矢麻刀
2023年8月24日(木)
詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=10103

【出演者による振り返りトーク】
部屋と演劇のポッドキャスト『部屋と演劇 vol.1 をやった(!) 永瀬安美 × 藤家矢麻刀』

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