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なぜ戦うのか——チーム・チープロ「Yokai Bodies Super杯!!!」についての覚書  西本健吾(チーム・チープロ)

2026年3月03日(火)01:15STスポット

背景
チーム・チープロによる「Yokai Bodies Super杯!!!」は、メンバーの松本奈々子によるトーナメント形式のワンマン・ダンス・コンペティションと銘打っている。つまり、松本奈々子が一人でダンスのトーナメント戦を行う。松本はこれまでのダンス作品の創作過程で生み出された4つの妖怪Body=振付を踊る。それぞれの踊りは「強さ」を競い、負けた妖怪Bodyは勝った妖怪Bodyに吸収されることになる。したがって、最後にはすべての妖怪Bodyを吸収した「最強」で「猥雑」な妖怪Bodyが出現することになる。


(「Yokai Bodies Super杯!!!」トーナメント表)

「Yokai Bodies Super杯!!!」は、「これまでチーム・チープロが手掛けてきた、個別の時代・場所に依拠した作品群から、振付(=妖怪Body)を抜き出し、まったくことなるひとつのフィールドで出会わせてみると、どんな〈ダンス〉がうまれるのだろうか?」という興味を出発点にしている。今回妖怪Bodyたちが出会うフィールドとして準備しているのが、トーナメント戦のバトルフィールドである。

この文章では、これまでのクリエーションや全4回の「Yokai Bodies Open Training」を通して、「トーナメント戦のバトルフィールド」で妖怪Bodyたちを出会わせることについて「考えてきたこと」の一端を書いてみることにしたい。なので、これはこのイベントの「解説」ではない。また、この企画は筆者と松本奈々子が共同で構成・演出を担当している。そのため、ここで語られる事柄だけがこの企画の背景ではない。あくまでも筆者が考えたことを中心としている。

文中ではわたしが個人的に触れてきたり影響を受けてきたりした作品を参照することになるのだが、前提として、わたしはフィクショナルな「戦い」に熱狂してきた反面、「戦い」の熱狂とテンプレートにうんざりもしてきた。そのような立場は少なからずこの企画に影響を与えていると思う。

戦いと熱狂
本イベントは、プロレス、M-1、格闘技、スポーツ、少年漫画、料理対決、テレビゲームといった「戦い」をテーマとしたポピュラー文化を参照している(※1)。「戦い」はそれをプレイする人と見る人々を「熱狂」させる。それはときに興行になる。わたし自身も、かなり限られてはいるが、いくつかのスポーツ(バスケットボール、卓球、相撲など)を観戦することが好きだし、少年漫画の愛読者でもある。そこまで数は多くないけれど、テレビゲームも楽しんでプレイしてきた。

ナショナリズムの文脈も重なった2023年のワールド・ベースボール・クラシックの日本対アメリカの決勝は、日本での視聴率が40%を超えた。紅白歌合戦がわざわざ旧態依然とした、ほとんど意味をなさないようにさえ見える白組対紅組という形式を採用し続けるのも、それがやはりスパイスとして視聴者の集中力を持続させるからなのかもしれない。「戦い」には耳目を集めるための演出的な機能がある。

熱狂を加速させるのは、「戦い」の背景にある「物語」だろう(※2)。因縁の対決。夢の共演。出場者の背負うものの重さや背景。成長譚。すこしズレるかもしれないが、調理対決における「お題」などの特殊なルール設定とそれにたいする出場者の予想外の創意工夫も戦いを白熱させる。だからこそ、興行としての「戦い」は、そうした物語をことさらに演出する。

因縁にせよ、成長にせよ、物語は歴史を参照する。過去を必要とする。「戦い」に向けられる「熱狂」には過去の積み重ねと、過去への回顧がある(※3)。「戦い」は絶えず過去を参照=反復することで強化される。「戦い」は再演によって進行する。トーナメントという形式はそのような再演を構築するうってつけの構造でもあり、だからこそ少年漫画は一時期この構造を好んで使用したのだろう(※4)。「戦い」の螺旋・・・!

〈男の子〉的なマスキュリニティ
このような「戦い」の歴史意識は、〈男の子〉的なマスキュリニティに支えられていると考えられる。「カブトムシとクワガタを戦わせたらどちらが強いのか」というような素朴な関心を下支えにしているように思われるそのマスキュリニティは、強さを競い優劣をつけることの残酷さや、未来へと向かう素朴な成長への信頼が見落とす人間の「弱さ」、自己犠牲の精神の恐ろしさ、ネオリベ的能力主義がもたらす問題点を捨象する(※5)。また、戦う身体の「美」や強さは、歴史上、優生思想や美の規範の構築と紐づいてきた。

戦うことだけでなく、戦いを観ることもまた——古代ローマの剣闘士たちの闘争を例に出すまでもなく——それ自体が残酷で暴力的なものとなる。あるいは、スポーツの文脈で言えば、それがナショナリズムの扇動に結びつくことを知っている。そして何よりも、「正義」の名の下に行われる戦争の問題がある。それらもまた、「美」と結びつく。これらの問題を串刺しにする事例として、映画監督・写真家のレニ・リーフェンシュタールを挙げることができるだろう(※6)。

「戦い」は、単一の、「男性的」な物語と美的感覚へと回収されてしまう危うさを抱えている。その「戦い」には終わりがない。

戦いからの脱却?
だからこそ、「戦いの螺旋」からの脱却はフィクション作品でよくテーマになる。冨樫義博のバトル漫画『幽☆遊☆白書』(1990-1994年連載)に登場する重要な敵キャラ・仙水忍を打ち破った主人公に、仙水のパートナーである樹が放った「オレ達はもう飽きたんだ。お前らは、また、別の敵を見つけ戦い続けるがいい」というセリフはとても印象に残っている。その後、『幽☆遊☆白書』同様、週刊少年ジャンプで連載が開始された武井宏之のバトル漫画『シャーマンキング』(1998-2004年連載)では、トーナメント構造そのものの破壊やトーナメントからの主人公の離脱が描かれ(それは十分には完遂されないが)、ラスボスの救済へと物語が向かう。トーナメント構造の破壊を象徴するセリフ「くたばれシャーマンファイト」が敵陣営のキャラクターであるペヨーテ・ディアスによって発せられたことも興味深い。(※7)


(武井宏之『シャーマンキング』(講談社)第249廻「くたばれS.F.」より引用)

けれど。「戦い」のマスキュリニティの問題には脱却や破壊でしか応じられないのだろうか。そうではないように思う。

「戦い」はときに個人の尊厳を守るための抵抗となることもある。そのような「戦い」を少女たちの立場から描き、友情を肯定したのは幾原邦彦監督のアニメ作品『少女革命ウテナ』(1997年)だった。『少女革命ウテナ』の主人公・ウテナの「戦い」の動機は、彼女が決闘を交わす、世界を革命するための男性的・超越的な「力」の獲得を目指す者たちとは異なり、徹底して友人の解放にあった(ちなみに、重要だと思うのはそのような「戦い」は必ずしもウテナが望む形では達成されないことだ)。そのような動機に基づく「戦い」はマスキュリニティを批評する。そこには別の「物語」の語り方がある。

勝利やその先の地位や名声を目的化しない、闘争そのものを目的化した「戦い」は、互いに互いの存在を認めあうためのいわばケアの儀式となり得ることもあるだろう。漫画家・松本大洋のボクシング漫画『ZERO』(1990-1991年連載)や卓球漫画『ピンポン』(1996-1997年連載)の物語終盤の「戦い」には、孤独な強者同士が戦いによって互いを癒すような、そんなユートピア的な時空間が出現する(その描写は、やや素朴すぎるきらいもあるし、ホモソーシャルな共同体でもあるが)。

また、プロレスは「戦い」を演出的にパロディ化しつつ、「戦い」の自己破壊的な快楽を追求する文化として、「戦い」への批評性を有していると分析することもできるかもしれない(※8)。この企画ではプロレスの演出的「ハッタリ」に、大きな影響を受けている。

さらに、戦う身体は、その「戦い」が抱える物語からも、美の規範からも逃れるような仕方で、躍動する身体の魅力を放つことだってあり得るかもしれない。2026年冬季オリンピックのフィギュアスケートの金メダリストであるアリサ・リウのパフォーマンスにはそのような希望を感じた。本企画の音楽を監修してくれている桜井圭介さんの言を借りるなら、フィギュアスケートのパフォーマンスに物語を導入せず、好きな曲で踊っていいのだという開放感がある。もちろん、アリサ・リウのバックグラウンドも相まって、感涙を誘うものとして受容もされているけれど(※9)。

「戦い」はどこに向かうのか
「戦い」の観客となることはときにとても残酷な行為になる。戦いへの期待と熱狂の視線は、戦う者を追い込み・排除を生み・分断を加速する。「戦い」はときにその空虚さを露呈させる。しかし他方で、戦いは自己を肯定し、他者をケアし、美の規範を逸脱する。「戦いの螺旋」=物語には、脱却やその破壊という仕方の応答がある一方で、異なる「物語」を対置することや、「戦い」のさなかで「物語」を無化することや、「物語」を複数化するという仕方での応答もあり得るのかもしれない。

いずれにせよ、わたしたちは「戦い」に、トーナメントに、このような両義的な目線を重ねることができる。だからこそ「戦い」は面白く、人々に、肯定的にであれ批判的にであれ、多くの言葉を語らせるのだろう。

では、そのような形式をダンスに用いたらどうなるのか。確かに、すでに、主にストリートダンスのフィールドで、ダンスバトルは存在する。しかし、コンテンポラリーダンスにはあまり馴染まない形式のように思われる(コンペティションは存在するが、直接対決ではないし、あまり競うことを演出的に誇大化しない)。「戦い」はダンスにとって、場合によってはノイズになる。

だけれど、「戦い」の形式を借りることで見えてくる「ダンス」のあり方もあるのではないか。つまり、わたしたちはダンスになにを欲望しているのかということを、ダンスの強さとはなんなのかということを、トーナメントという形式は逆説的に露わにしてしまうのではないか。そのための、ショーケースとは異なる、ソロダンストーナメントという形式である。

関連して付け加えたいのは、それぞれの妖怪Bodyはフェミニズムや植民地主義の問題を関心として生み出されてきたし、何より身体を「観る」ことを共通のテーマとしてきたということだ。そのような妖怪Bodyたちを「男性的・少年的」フォーマットで出会わせることは、妖怪Bodyたちを「男性的・少年的」フォーマットに従属させることになってしまうかもしれない。しかし、フォーマットを批評することへも向かう可能性があるだろう。そこにも一種の「戦い」がある。それのみならず、このような「戦い」はもともとの、それぞれの妖怪Bodyが生まれるきっかけとなったチーム・チープロの作品の拘束を離れた、それぞれの妖怪Bodyたちの魅力を浮き彫りにさせるのではないか。本企画はその概要文で「過酷な勝ち抜き戦の果てには、すべてを取り込んだもっとも「猥雑」でもっとも「強い」Yokai Bodyが[…]出現するはずである」と書いた。本企画、いや、本大会の、「戦いの螺旋」は、チーム・チープロが見ようとしているダンスの輪郭を描き出してくれるのではないかと期待している。

※1 美術の領域で参照した先行事例として、カタルシスの岸辺の「死蔵データGP」、たくみちゃんの「たくみちゃん杯」がある。カタルシスの岸辺には本企画の「宣伝美術マテリアル」を、たくみちゃんには「行司MC」を依頼し引き受けてくださった。

※2 物語と歴史の関係については、難波優輝『物語化批判の哲学 ——〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社, 2025年)を参照した。

※3 スポーツにおける「物語」の強さについて、ひとつ例をあげる。2024/25シーズンのNBAのプレイオフ・トーナメントにおけるインディアナ・ペイサーズの躍進とその悲劇的な終わりだ。3年連続でプレイオフ進出を逃していたペイサーズはこの年、伝説的なプレイオフランを果たした。いわゆる全員バスケ的なスタイルで次々と強豪チームを打ち破りプレイオフ決勝に駒を進めたのだが、その過程で多くの試合で劇的な逆転を果たしたのだ。とくに2025年5月21日、ニューヨーク・ニックスとのカンファレンス・ファイナル(いわゆる準決勝)第1戦、第4クォーター終盤、最大14点差にまで広がった点差を縮めたペイサーズは、試合終了残り1.2秒のタイミングで、エースのタイリース・ハリバートンによるブザービーターとなるミドルシュートで同点に追いつく。そのときハリバートンはペイサーズのレジェンドプレイヤーであるレジー・ミラーの「首しめセレブレーション」を披露した。会場にはミラーの姿もあった。低迷していたチームが、準決勝にて、大きな点差を全員バスケで縮め、最後の劇的な同点シュートをかつてのレジェンドへの参照によって締めるという流れは、「過去・歴史の参照」という点で好例である。当然この試合は大きな反響と興奮を呼んだ。しかし、ここで終わらない。NBAファイナル(決勝戦)に進んだペイサーズは、2025年6月22日、このシーズンで圧倒的な戦績を残し決勝に進んだOKCサンダーとの第7戦(プレイオフ・トーナメントは4回先に勝った方の勝利となる。つまり、NBAファイナル第7戦とは、正真正銘の最終戦である)を迎える。この試合、試合序盤から好調にシュートを決めいていたハリバートンだったが、第1クォーターでアキレス腱断裂の怪我を負い、ゲームから退場。チームも敗北してしまう。この悲劇的結末は多くのファンを悲しませる結果となったし、怪我は当然ない方がよく、怪我人が続出する現在のNBAの試合スケジュールの問題も指摘されている。しかし。来シーズン復帰したハリバートンが、再びOKCサンダーと試合を行うことができたなら、その試合は大きな盛り上がりを見せるだろう。戦いの物語とはそういうものだ。

※4 多くのスポーツ漫画がトーナメントを採用しているほか、バトル漫画なら鳥山明『ドラゴンボール』に登場する「天下一武道会」、格闘漫画なら板垣恵介『グラップラー刃牙』の「最大トーナメント」がわかりやすい。

※5 ここから参照する少年漫画の文脈とは異なるが、ジャック・ハルバースタムの『失敗のクィアアート——反乱するアニメーション』(藤本一勇訳, 岩波書店, 2024年.)には、男性的成長批判を考える上で大きな影響を受けている。

※6 リーフェンシュタールはナチス・ドイツ政権下でベルリンオリンピックのプロパガンダ的な記録映画『オリンピア』を製作した。また後年にはアフリカのヌバ族を撮影した写真集『ヌバ』を刊行している。後者の作品に対しても、ヌバ族の「美しい」身体への植民地主義的な目線が批判の対象となっている。

※7 kazu1tetuのブログ「『幽遊白書』の考察 ――90年代の先駆者たち②」(2023年5月7日, https://killminstions.hatenablog.com/entry/2023/05/07/144111 )とその前後の少年漫画論はこの文章を執筆するにあたって参照した。それ以外にも、高島鈴がwebちくまで連載した少年漫画論「くたばれ、本能。ようこそ連帯。」(2021年, https://www.webchikuma.com/n/n55686cebf282 )や、高島のジャンプ論「招かれざる客を招く——「週刊少年ジャンプ」・ジェンダー・閉ざされるファンダム」(『文藝』2020年冬季号, 2020年, 370-379頁.)は本稿のみならず本企画の重要な参考文献である。

※8 プロレスにおける「自己破壊」の快楽については、千葉雅也「力の放課後——プロレス試論」『意味がない無意味』(河出書房新社, 2018年, 283-289頁.)を参照。

※9 以下の記事を参照。「《異色のフィギュアスケーター》アリサ・リウ選手の金メダルに「日本人が感涙した」ワケ 「自国選手の勝利と同じくらい嬉しい!」の声、なぜ殺到?」(東洋経済ONLINE, 2026年2月25日, https://news.yahoo.co.jp/articles/d33d18b01b51c15c5af91465dd23f5e9fa136ca5



公演情報

チーム・チープロ 『Yokai Bodies Super杯!!!』
2026年3月20日(金・祝)ー3月22日(日)
公演詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=14465

松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ
パフォーマンス・ユニット。現在は松本奈々子と西本健吾が共同で主宰する。作品ごとに構成するチームによって、身体や身振りの批評性をテーマとした舞台作品の制作を行う。近年の作品に『皇居ランニングマン』(2019-2020、ラボ20#22参加)、KYOTO EXPERIMENT で発表した『京都イマジナリー・ワルツ』(2021)や『女人四股ダンス』(2022)、『nanako by nanako』(2024)などがある。

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