2024年3月30日(土)11:01STスポット
まなざしが交差する場として、『ひとととととり』では、稽古場公開に加えて、アーティストにもクリエイションに立ち会っていただきました。その過程で生まれた出来事をそれぞれの視点から綴っていただきました!
第二弾はヴァイオリニストの加藤綾子さんによるゲネプロのレポートです。
横浜駅から人ごみを抜けて、STビルの地下に潜り込んでいくと、グレーの廊下が交錯している。インド料理店や中華料理店の看板を横目に、角を曲がる。いつもなら閉ざされているドアが開いて、剥き出しになったカーテン越しに、人の気配がある。
『ひとととととり』は、ふたりのダンサー──Aokid、涌田悠と、ひとりの音楽家──西井夕紀子による場である。「場」といったのは、ほかに適切なことばが思いつかなかったからで、出演者3名のうち2名が「ダンサー」だからこれはダンス、というのはあまりに短絡的だし、チラシのクレジットには「うた・おどり・ことば」とあるし、わたし個人の感覚について言えば、最終的に「これはほとんど音楽だ」とおもった。最後の項目についてはあとで説明するとして、とにかく、話を『ひとととととり』という場に戻す。Aokidがいう。
「インサートコンサートもあるので、楽しみにしててください」
ゲネプロ開演前というにはあまりにもゆるい空気が流れている。客席の前には、ちいさな湖を模した水色のマット、壁のお地蔵、緑のマット、楽器、が配置され、種別も素材もばらばらな鳥のぬいぐるみが、やはり気負わずにちょこんと置いてある。たぶん彼らも観客なのかもしれない。

本来なら楽屋であろう方角から、控えめなギターと歌声が聞こえてくる。覗きこむと、実はそこにも心ばかりの客席がセットしてあって、焚き火の映像が煌々と焚かれていて、Aokidはその前に座り、アコースティックギターでなにやら口ずさんでいるのだった。
いんさーとこんさーと、という聞きなれないことばに意識を引っ張られながら、Aokidのソロライブに右半身を傾ける。インサート=挿入。コンサートが挿入されるらしい。それが今のことなのか、これからのことなのかはわからない。コンサートが挿入される「場」。ふと足元に目をやると、川柳が一文字ずつ、スタンプみたいに押されている。これはいったいなんだろう──とめどなく想像していると、STスポットの萩谷さんが客席前にするっとあらわれて、朴訥と前口上を語り、さいごに、チラシの詩を読み上げる。
”耳を澄ませてみましょう
透明なまま、見えないんだけど歌ってる
歌について考えている
こうして体をいち、に、さん、しと伸ばすとその日の天気に体がなじんでくる
再びバタバタバタ〜!”
*『ひととととり』公演チラシより引用
朗読が終わり、口笛とともにAokidが、青と赤のお面をつけて現れる。大きくて雑多な紙束を抱えていて、なにかとおもったら、それは紙芝居だったらしく、一枚めくるごとに、てんでばらばらな画用紙が登場する。描いてある内容も抽象的で、まるで紙芝居らしくないそのありさまがおかしい。舞台裏から西井と涌田が、片手に鳥をはりつけて、やはり口笛を伴いながら現れる。左手の鳥で戯れる3人。突然、さわやかな音が鳴る。壁に(木に?)かけられたグロッケンは、いつ、だれが遊んでもいいように開かれている。
涌田とAokidは森の住民のように振る舞うが、そこにただ「いる」だけの西井が、舞台正面奥のひなだんを叩く。とてもいい音がする。それを地蔵が見下ろしている。相撲なのかロッククライミングなのか、掛け声をかけながらお互いのうでをつかんだりまたいだりして進んでいく。

涌田とAokidがそれぞれ箱の上に立つと、なんちゃってオペラが始まる──たぶん森のなかで行われているそれは、モーツァルトの『魔笛』を思い出す。モーツァルト好きに怒られるだろうか。とんちきとん! とんちきとん! 真剣に歌い上げるAokidと涌田の顔の、しわのひとつひとつを追いかけざるをえない。
唐突に「みなさん、どうでしたか?」と問いかけられるので、森は消し飛び、目の前にSTスポットが現れる。「せっかくだから見ていってください」。あてどもなくSTスポットのなかをうろつく。足元に、いくつかの川柳がはりつけてある。なるほど、舞台裏はこうなっていたのかあ、と覗き込む観客に容赦無く、休憩終了のしらせがくる。あっという間である。
休憩短いなあ、という空気が流れるなか、どうやら3人は新曲を発表するらしい。タイトルは『齧(かじ)った』。今度こそスケッチブックをつかった、体裁の整った紙芝居が行われ、たまごサンドの歌詞と、ゆるやかな音高の矢印──やさしい楽譜の機能を果たしていて、意外なくらいみんな歌えてしまう──を追いかけながら、まったく初見の『齧った』をみなで歌う。
“「齧る」って漢字は難しい”
“わたしたちの ギザギザのあくしゅ”

3人いわく、今回がベストパフォーマンスだったそうだ。インサートコンサートとはこのことだったのだろうか。気の抜けた拍手のあと、3人で川柳をつくった話が始まる。それぞれの川柳は、季節感も風情もへったくれもなくて、それが心地よい。ことばの節と節が重なって、気がつくと3人が潜り込んだ舞台奥から、風の音が流れ込んでくる。あれは山だ。やがて、3人が風に乗って、山から降りてくる。そのまま、互いの川柳をモチーフにした即興的なパフォーマンスにうつっていく。虫食いの葉っぱとおぼしい影が、照明によって映し出される。西井が、最前列の観客に鍵盤を差し出し、「ここを押してください」と指差す。「Fa」の鍵盤である。「ふぁーーーーーーーー」と頼りなく響いた音が、涌田とAokidに横取りされて、大きな「フォカッチャ」になる。なりゆきがわかりそうでわからない、絶妙なラインを軽々と飛びこえながら、3人は「フォカッチャのような岩壁のぼらせて」と叫ぶ。まるで立体音響みたいに、あちこちから鳥の声──森の声、街の声──がきこえる。
糸をまきつけた涌田のパフォーマンスなどを挟み、感覚が曖昧になってきた頃、4つ打ちのビートが時間を刻み始める。まるでヒップホップでも行うのかと予感させて、『たまごサンドのうた』が再び立ち戻ってくる。ギター、鍵盤ハーモニカ、思い思いの音が、あちこちから飛び跳ねる。もちろん、観客だって歌う。
照明は終始、おだやかに空間を作っていく。木の葉、葉脈、電車の窓が、主張しすぎず、自然に立ち現れては消えていく。Aokidだけが、薄明かりの中に残る。「おー」と声を上げ、みずうみを動かす。西井と涌田がその場にあおむけにたおれ、Aokidはスマホで写真を取る。たぶん海の底。鳥はいなくなり、3人は貝がらで遊んでいる。
壁から剥がされ、ひもでくしゃくしゃに縛られたチラシが、鳥の死体のようにも見える。
海の底をゆっくり歩く。すこし、居心地の悪ささえ覚えるような、これまでと打って変わって静かな時間が流れ、「よっこいしょ」や「とんちきとん」がリフレインされる。トランペットと鉄琴が、水底で最後に響いて消える。

『ひとととととり』では、もちろん、3人の身体の動き、空間のどよめきがあったけれど、それ以上に音楽の印象がつよい。たとえば、3人がまばらに歩きながら、互いに川柳でレスポンスしあう時間。「CHAGE&ASKA」「らーめんの伸ばし棒」──3人がそれぞれ作ったという川柳のひとことひとことが、入れ違いになり、右と左、奥と手前を行き来し、立体音響さながらにことばが解体され、身振りによって音が変換されるさまはきわめて演奏的だった。
では、世間一般でいわゆる「音楽」と呼ばれるものをあつかっていた西井はどうかというと、かえってその「音楽」らしさが効果音的で、おもしろかった。子どもみたいな感想だが、実際、とてもおもしろかった。『ひとととととり』の場では、いわゆる抽象的な“音楽”を身体が担い、具体的な“舞台”を音楽が担っていた。
音がなっていなくても、わたしは彼らの行いを音楽として引き受けざるを得なかった。彼らが腕を振ったり、もつれあったり、寝転がったりするとき、わたしは彼らの態度を聴いた。そのとき、彼らの意図が踊りだったのか、詩だったのかはわからないけれど──ジャンルやカテゴライズがとことん引き伸ばされ、解体されている昨今だからこそ、「これは音楽だ」と思うことがある。聴取体験であるかどうかではなく、“聴く”ことができる空間。どこから・だれが・なにを発するのか、からだで受け取る時間。
『ひとととととり』でおこなわれていたことは、そういう意味で、ほとんど音楽だったと、わたしはおもう。
写真撮影:黑田菜月
*『齧った』の歌詞、3人が作成した川柳たちはこちらからご覧いただけます!

【公演情報】
Aokid × 西井夕紀子 × 涌田悠 『ひとととととり』
日程:2026年3月13日(金)-3月15日(日)
詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=14511