ST通信The Web Magazine from ST Spot

小さな振付という方法――カタチとナラティブ 「まとまらない身体と 2024/横浜session」レビュー(竹田真理)

2024年5月12日(日)16:43STスポット

 『まとまらない身体と』は10秒ほどの小さな振付を採集し、上演の場でランダムに取り出して動くダンス作品である。振付の採集は継続しており、ストックは今も増え続けているので「作品」と呼ぶのは相応しくないかもしれない。公演フライヤーには「ダンスプロジェクト」とある。
 プロジェクトは2021年に開始して以来、福留麻里のソロダンスとして上演を重ねていて、筆者は2022年、都内某所でのワークインプログレスを見ている。小さな振付は平易な振付であり、日常の動作・身振りを採取したような動きがほとんどである。そうして集められた振付がこのワークインプログレスの時点で90個ほどにのぼっている。その中から幾つかを取り出して動いた後は、それぞれの振付について由来や背景の説明がある。いつ、誰による、どんな場面を動きにしたものかを福留自身が明かしていく。さらに次の段階として、一つ一つばらばらの振付を今度は連続して動いてみるということを行う。
 面白く思ったのは、動きは福留自身が作ったものばかりでなく、人から譲り受けたものが含まれていることだった。「振付は人にあげたり貰ったりできるものなのだ」と、妙に感心した。踊る身体と不可分のはずのダンスが当の身体から切り離され、他の身体に譲り渡されたり、置き土産のように残していかれたりして、やりとりされるのだ。また、振付が集められストックされていくということも興味深かった。一つ一つ見出しを記した振付カードがインデックス化されていて、そこからカードを取り出すように上演の場に呼び出される。そんなイメージだ。会場には福留が振付をイラストに描き起こしたものが展示されていた。大きな紙に様々な動作をする人の姿が簡易な線でいくつも描かれていて、こちらはカードというより絵巻物に近い。一つ一つの絵は場面のつながりを持たないが、動き遊び踊り回る身体が一つの平面に描きとめられ、さながら鳥獣戯画のようだった。

 今回STスポットで開催された『まとまらない身体と 2024/横浜session』では、踊り手を4人に増やし、そこから上演回ごとにメンバーを変えて3人が出演する。小さな振付の実演、各振付の由来の説明、実演した振付の連続パフォーマンスという三部構成に変わりはない。会場には宙吊りにされた時計の文字盤、壁に貼られたペーパーほか小道具が設えられ、床の一部に光沢のあるサーモシートが張ってあるのも前回同様だ。サーモシートは人体の熱に反応して色を変えるので、手を当てれば手のひらの、足で乗れば足裏の形がそのまま残る。実際にシートに乗ってみると自分の身体の嘘のつけない痕跡がそのままくっきり残ることにちょっと戸惑う。イリュージョンの通用しないありのままの事実がそこに象られる。
 一方、今回ならではの設えもあり、小林椋による動く装置はその一つ。金属の部品や蛍光灯や布などの素材を組み合わせたおもちゃのような装置が6,7個ほど、庭石のように置かれている。電動で作動する際のノイズがループを生んで耳に入ってくる。小林のクレジットは「音」と記載されているが、物体と音で上演環境に関与し、ときに偶発性を呼び入れるトリガーとしても作用する。
もう一つ、今公演では採集した振付の数が169個に増えている。出演のダンサーたちはこの169個をすべて覚えているという。私が観劇したのは初日の昼に行われたゲネプロと同日夜の公演である。ゲネプロには登場順に安藤朋子、たくみちゃん、杉本音音が出演した。夜の公演は安藤朋子、杉本音音、福留麻里の3名だった。以下に2回の上演の様子を合わせて記録する。

 最初にパフォーマンスのエリアに入ってきた安藤朋子は、庭でも散策するような足どりで一巡りすると、背中をびくんびくんと収縮させる動きをして去る。続いて現れたたくみちゃんは、周囲を見回しながらエリアを歩くと、背後の壁に身を預け、今にも崩れ落ちそうな恰好で身体の一部を密着させる。たくみちゃんが去り、杉本音音が入る。やはりあたりを見回しながら一巡りし、手足をリズミカルに小さく動かすことを2,3回行い、去る。3人はこの後もこの順に登場し、振付を動いて去っていく。動きはいずれも時間にして十秒ほど、長くてもその倍ほどの小さなもので、バンザイのように両手を上げ、片方の足を滑らせて身体を傾け、前かがみの姿勢で腕をぶらぶら下ろして揺らす(安藤)、とか、しかめ面で入ってきて立ちどまって手をかざし、その手のひらの下を自らくぐるように身をかがめて回る(たくみちゃん)、とか、上体を大きく上下させてヘッドバングし、両手をふわりと大きく揺らす(杉本)、といった具合。身体のどの部位をどのように動かしたと即物的に描写するほかないような、ありのままでむきだしの振付が、カルタをめくるように一つずつ提示されていく。何かが展開するのではなく、振付のカタログをただ展示していく要領で、動きそのものがあっけらかんと、すこやかに進められていくのである。

 3人は坦々と動きを実行するが、少しずつ変則的な場面も見られるようになる。動きを終えたダンサーがその場を去らずにエリアの端で膝を抱え、他の人の動きを見ていたりする。たくみちゃんが盆踊り風の振付を動くと、見ていた安藤が、続いて杉本がわずかの時間それに加わる。あるいは前の人の動きが終わらぬうちに次の人が入り、複数の動作が重なったり、他の人の動きを受けて自身も動いたりといった影響の関係が生じてくる。ただしダンサーはすでに存在する169個のいずれかを動いているのであり、直接のやり取りで動きを新たに生じさせるのではなく、各自の選択と実行が互いに干渉し合うわけである。床で電動装置のゴムホースがうねりながら回っている。その前で安藤が身をよじらせる。装置に応答した即興というありがちな演出にも見えるが、装置のうねりが安藤に連想を引き起こし、169個の中から似た動きを取り出しているのである。パフォーマンスの流れに変化が起きたのは、客席の一方の端に丸椅子を並べ、もう一方の端に座る観客に丸椅子への移動を促すシーンである。空間の配置が変わり、観客の巻き込みが図られる。だがこれもセノグラフィー担当の佐々木文美による振付指示であったことが後に明らかになる。ただ、移動に応じるかどうかはその日の観客次第ということになる。

 どうやら本作の基本的な設計が見えてきたようだ。採取された振付は既に経験されたものでありフィックスされている。それが今も数を増やしながら集積されていく。そこからどの振付を取り出して動くかはダンサーによりこの場で選択されている。「小さな振付」とその集積(と登録=インデックス化)は、作品の枠を保つ本作特有の仕様だが、そこにある幅をもった自由と偶発性が、これも特有の手続きを通して引き入れられる。「思い出す」というモーメントは本作において鍵になる。再現を基本とする作品の中で即興性がはたらく数少ない局面であるからだ。ダンサーたちはエリアに入り思案顔になるので、振付を思い出すことに真剣な様子が見て取れる。何かを考え考え歩き、よし、といった感じでステップを踏む。こうして一人につき14個、3人で42個の振付がランダムに取り出され、実演された。架空のクラウド上か、踊り手の身体の中か、どこかに振付が169個集積されており、出演者の一人に聞くところ、瞬間に脳内で盛んに検索を掛けることもあれば上演の流れで自然に身体から出てくることもある、といった仕方で、振付が取り出され、再現されるのである。

 第二部では、先ほど踊った振付を出演者自身が解説する。安藤がゲネプロの最初に出てきて背中をびくんびくんと痙攣させたのは「だんだんお腹が大きくなってきたお母さんが赤ちゃんの胎動を初めて感じた瞬間」だと語る。たくみちゃんの壁への寄りかかりは、実際には大きな木に寄り掛かっているところだと言い、木は気持ちがいいから皆さんもぜひやってみてほしいと観客に語り掛ける。「お腹に赤ちゃんシリーズ」は他にも種類があるのだといい、自らは経験し得ない振付、小さな子どもや友人・知人から贈られたり仕草を切り取ったりした振付も含め、ダンサーたちは動きを示しながら語っていく。
 実際に、こうして由来を知るのは感動的な体験だった。スナップ写真でも撮るように小さな出来事を切り取ったそれらは、日常の中のささやかだが特別な時間の輝きをもっている。それぞれの由来、固有の背景、内在した物語は、むきだしの振付に意味を与える。片腕を肩からぐるぐると回すたくみちゃんの動きはバスケット部員だった中学時代、冷たい指先に血を集めようとしているところ。身に覚えのある観客から笑いが零れる。時計の針を連想させる杉本の動きは入院中に時計を見るといつも8時40分を指していたというちょっと不思議なエピソードによる。伸ばした腕を大きく回す、と言葉にすればあられもない振付に、その人だけの固有の物語が内包されている。

 10年前にジンベイザメと泳いだ経験を語る福留は、片手を頭上に高く上げ、手のひらで何かをなぞりながら歩く振付を、10年前のその時を思い出しながら再現する。サメに触れている手の感触や、驚き感嘆する心の動きが、福留の身体に生き生きと蘇っている様子がわかる。再現される記憶と過ぎた時間の代え難さは、せつないほどに福留の生を彩っており、「思い出す」という回路を経ることで、それを経験した時間とは別種の純度がもたらされている。

 ここで観客が立ち会っているのは、振付の外形に物語が充填されていく過程だろう。では逆に、第一部で実演された振付は何だったのだろう。発露した身体から切り離され、内的衝動を伴わない小さな振付は、修辞や装飾を削ぎ落した、身振りの形状として提示された。それはちょうど福留によるイラストがアウトラインの平易な描線で描かれているのに対応する。陰影のない、あっけらかんとした、明朗で清澄な踊りのカタチ、架空のクラウドに集積された、天上的なダンスの形象=振付、だろうか。
 この曇りなきカタチである「小さな振付」という方法は、動作の登録と概念化をとおして、他の身体との間における振付の共有を可能にする。その一方で「小さな振付」は、既にそのように生きられた出来事の「書き換えられなさ」を担保する。本作ではこの二つの側面が場面ごとに前景化する。秒針だけの時計は、ここがリニアな時間の紡がれない任意の場所であり、かつ上演が遂行される現場であることを示唆している。
 こうした小さな振付のあり方は、ダンスを巡る一般的なイメージや言説から遠く離れた場所にある。生成ではなく再現、発露ではなく選択、特権的な現在ではなく遍在する任意の時間、継承の直截性(人から人への振り移し、振付指導)ではなく譲渡、共有、共鳴の関係を営みの基礎とするもう一つのダンス観への試みである。
STスポットの上演では、由来を語るダンサーたちの言葉が重なり、ひしめき、やかましくこだまし、ハウリングを起こす。上演空間は記憶の森となり、もはや誰のものでもない夥しい記憶が主なき声となって反響しながらその場を満たしている。「これをやりました」「こんな振付をやりました」「(人差し指を示して)印をつけるという振付です」「ウクライナとガザを思って作った振付です」。ダンサーたちの口々に語る言葉の断片が耳に届く。3人が去ったあとの空間をLEDの青い光が満たし、床には木漏れ日様の影が差している。169個の振付の声なき声がこだまし、記憶の生態系を形作っている。

 続く第三部では、この日3人が実演した振付を一人のダンサーが連続で上演するが、この行為の意味をどう考えるかは、いまや明らかであるように思われる。一つ一つは関連をもたない振付のソロ上演は、それらの物語や背景を知った上では、あらためて振付の形状が一つの身体の上に一つ一つ結ばれるのを見ることを促すだろう。実際、この時、息を詰めてパフォーマンスを見守る観客の集中の高さは尋常ではなかった。
 もう一つの可能性は、由来の異なる複数の振付を一つの身体が引き受け、新たな語り部となって語り直すことだろう。かつて誰かに体験された出来事の、もはや誰のものでもない振付を、別の誰かの身体が「思い出して」再生する。それは福留の言う「民話のような」ものとしてダンスを語り伝え、共有する、ダンスの伝承のもう一つの方法であるのかもしれない。この試みが、声なき声をいかに聴くかという震災以後の表象の課題に通底しており、また、美学的には、ダンスをいかに記録・収集・保存するかを巡るダンスアーカイブの議論に接続され得るものであることも確かである。
 ゲネプロでは安藤朋子が、夜の回では杉本音音がソロを踊ったが、二人のパフォーマンスは当然ながら異なる身体性による味わいの違いを示し、さらに「思い出す」手続きがもたらす自由度と即興性が、その都度のナラティブを形成するのを観客は目撃したことになる。169個のインデックスから開かれる上演の複数性は、人数を増やし上演回ごとにメンバーを変えて臨んだ横浜セッションで見えてきた可能性だ。あたかも民話の語りのようにかつての誰かの出来事が、今も様々な場所で経験されている現実の身振りと共鳴しながら小さな振付を繁茂させていく。その森に迷い込むのも豊かな営みであるように思う。
(2024年1月26日所見)

記録写真:黑田菜月


竹田真理
東京都出身、神戸市在住、ダンス批評。関西を拠点に活動し各種媒体に寄稿している。

戻る