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2015.03.25

坂あがりスカラシップ2014対象公演『プリズムが砕けて、青』上演にむけて


急な坂スタジオ横浜にぎわい座(のげシャーレ)STスポット3館連携のもと、稽古から作品上演までをトータルサポートする支援プログラム「坂あがりスカラシップ」の対象者・橋本清さんによるブルーノプロデュース『プリズムが砕けて、青』をSTスポットで3月27日(金)~30日(月)に上演します。上演にむけて橋本さんにインタビューしました。その模様をご紹介します!


公演の詳細はこちら


ブルーノプロデュースの本公演としては2年ぶりとなりますね。

以前、僕の過去の作品を観てくれたとある方に、「些細で儚いもので作品を作っているけれど、そういうものってすごく壊れやすいから、形にしようとする作業と儚さを保つ方法っていうのをこれから磨いた方がいい」という言葉を頂いたことがあって、それが自分の中に沁み込んだんです。僕の創作の出発点は、たとえば何かの「絵」や「写真」や「風景」を自分が見て(あるいは人からそういう話を聞いて)、自分の頭の中に残ったイメージ――残像がほとんどです。と同時に、俳優の身体や、音や光といった、演劇の現前性にも魅力を感じていて、つまり、具体的ではないものを、具体的なものをマテリアルにして立体化していくことを自分はしてきたんだなと。そして、今作ではこれまで以上にそこの部分を捉えていきたいなと。


タイトルにはどういった意味があるのでしょうか。

トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」という小説で、娼婦のホリーと同じアパートに住んでいるポールが出会う冒頭のシーンでの描写に、ホリーの瞳に、『プリズムが砕けて、青とか緑とかグレーが散らばっている』っていう一文があるんです。まぁ、それは日本語に訳されている表現なんですけど。誰かが誰かを見ているっていうのがいいなって思ったんですね。


今回はどんな作品になるのでしょうか

2年前に中止した公演の稽古期間に俳優から聞いたエピソードのひとつを軸にした作品です。秦野市という山に囲まれた地域で学生時代を過ごしていた、人を絵に描くのが好きな女の子がいて、彼女は朝、友達と待ち合わせをして登校していたのですが、徐々に待ち合わせに間に合わなくなってひとりで登校するようになりました。それまではあまり風景を気に留めていなかったのですが、ひとりになったことをきっかけに、その時に眺めていた風景とか、記憶したものを描くようになっていったそうです。今回の作品は何かをきっかけに自分の周りの世界について考えたり、見ている風景をとらえようとするっていうエピソードを軸にしています。この女の子とさっきのカポーティの一文が僕のなかでリンクしたんです。きっとそれは彼女だけの話ではないと思うんですよね。誰かが見ている世界、誰かに見られている世界、ちょっと気恥ずかしいのですが、あえていうと「わたしと世界」がテーマになってきて、そのテーマに、土地、歴史、そこで暮らす人たち、とかのキーワードを結びつけたいな、と。


2年前に今回の公演と同じタイトルで上演しようとして、途中で公演中止になってしまいましたね。

2年前は俳優からエピソードを集めてそれを基に作品を作るということをしていたんですけど、あのときはそのエピソードがまとまらないし、つながらないし、という感じでした。今までできていたのになんで・・・という焦りがどんどん募っていって作品に取り組むことができなくなってしまいました。


作品作りを休んでいる間はなにをしていましたか

公演中止後は2カ月くらいしてから、ひとりで急な坂スタジオの和室にこもって、いままで聞いたエピソードや読んだ本、観た映画から触発されたものを作品にするっていうアウトプットする行為をひたすらやっていました。でもそれをやりながらやっぱり俳優がいないと作れないなって思って、公開稽古をやらせてもらいました。あ、でも目の前に俳優がいても作れないな、って。というか、作品をまとめるための、作品にしていくための方法が自分には少なすぎるってことにそのとき気づいたんです。その方法を今回の稽古で模索しているのですが、もう少しで掴めそうな手ごたえがあります。


公演中止にした作品にもう一度取り組むことにしたのは、どういう経緯や心境の変化がありましたか

舞台上で記憶を語ると別の色付けがされて、フィクションになったり、嘘っぽくなったり、感動的になったりするので、いろんな記憶をいろんな距離感で組み合わせていくということが、記憶を扱うことの最初のモチベーションでした。ある人がいて、その人が誰か別の人や、何かを見ているということがやりたかったんです。当たり前のことかもしれませんが、自分が見ているものはみんなと違うということに、ドキュメンタリーシリーズに取り組んでみてはじめて気づきました。その違いは自分にとっては衝撃だったのですが、他人から見れば些細なものかもしれないということに気づいた。それでも自分が受けたその小さな衝撃をお客さんに伝えていきたいと思ったっていうのが、中止にした作品にもう一度取り組もうと思った理由ですね。


ある意味立ち止まってしまった、立ち止まることができたから見えてきたものが、今回形になっているってことですかね。

そうですね。立ち止まったことで見えてきたものもあって、一方で、もし立ち止まらずに進んでいたら、と思うとちょっと怖いですね。

記憶って、自分が歩んできた道に戻るのと同時に、話している本人は現在進行形で進んでいるので、その両方を扱いたいって思うんです。通り過ぎていくものと取り残されたもの、その両方を。自分のルーツや見えているものを、キーワードをちりばめて作品に昇華しているので、僕たちが舞台上においてきているものをお客さんに拾い上げてもらえれば、過去に流れていた時間とか、この先に流れていく時間とかを感じ取ってもらえるのではないかと思います。