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2013.11.22

ドキュントメントを終えて
9月23日(月・祝)に一般公開を行い、本ワークショップは一区切りを迎えました。
ドキュントメントの活動では初のワークショップ、そして小規模な広報でありながら、応募数や一般公開の観覧者数はとても大きなものでした。沢山の方にご注目頂けたこと、改めて感謝申し上げます。

さて、2週間にわたりました本企画は冒頭で述べたように一区切りではありますが、一過性の企画ではなく、その過程を重要視した長期的な企画でもあります。
一般公開では参加者、観覧者のみなさまとも活発なやり取りが行われ、このWSで何が行われたのかなど、少なからずお伝えすることが出来たと思っております。しかし、足を運べなかった方もいらっしゃること、そして「ドキュントメント」という活動をより多くの方に知って頂きたく、先に行いました一般公開とは形を変えてご報告いたします。


◯山本さんへの質問
このWSは募集時のコメントにもあるように「他人なる」ことを探るということで、参加者には写真を手がかりに身近な人の視点からその光景・思い出を語ってもらいました。
そうしたWSの一部始終を観ていた人間として、お互いに了解している基となる部分も含めて、問い直してみようと思います。



佐藤:まず、「他人になる」という時に身近な本人の思い出という、物語として提出できる可能性はあるけれど、ドラマチックになるかわからないものに注目されたことについてです。
私も日常の中にあるものへの価値を信じています。また、この「自分のことを掘り下げつつ外から自分(とその周囲)を眺める」というのは、自己探求と批評性を有しており、そうした日常の中にあるものをアート・表現として見せることが出来ると考えています。
今回はのWSではその手応えは確かに感じることが出来ましたが、山本さんの手応えとしてはいかがでしょうか?


山本:「他人になる」というテーマはもう少し掘り下げることができたように思います。おそらく、4つくらいの段階を踏む必要があったのではないかと、終わってから気付きました。
1・自分自身の記憶を探る → 2・自分自身の記憶の客観性を探る → 3・客体/役としての記憶にすり替える(ねつ造ともいえる作業) → 4・客体/役としての記憶を身体に染み込ませる(完成)
自分自身の経験やイメージの中からでしか「他人になる」ことはあり得ないという当初の勘は、間違っていなかったように思います。ただ、他人になる、ということはある種ドライさを手に入れることだと思いました。参加者はプライベートなこと、自身の経験を話しますが、その内容を他人として語る場合、参加者(自分自身)の感情から距離をとって語らなければなりません。自身の経験は、貴重でかけがえのないものです。ただ、それは他人からしたら、価値のあるものと言い切れない部分もあります。なぜなら、他人(客体)は、他人自身としての経験の中でのみ、生きてきただろうからで、その、彼ら(参加者)の話す経験の一部になることはできてもすべてにはなり得ないからです。
だから「他人になる」場合、誰かさん(参加者)の経験に対してどこかドライな感情を持っていく作業が必要になります。「私は悲しい」ではなく「彼女は悲しそうに見えた」でなければならなかった。この距離感をもっと時間をかけて創るべきだった。ということです。もちろん、その中で、一瞬、一瞬だけ自分自身が顔を出す時もあるでしょう、シンクロと言ってもいいですが、その一瞬にたぶん僕ら観客は感動するのでしょう。けど、その感動は、彼らがあくまで他人になる努力を一瞬たりとも怠っていない場合にのみ、現れるものなのだと、感じました。
上記の4つの段階の中で、1と2は満足にできましたが、2と3の間、あと、4をもっと時間をかけてやるべきだった。というのが反省です。つまり、手応えです。


佐藤:これは期間など枠の問題もあるかと思います。それゆえに、長く生かすべきものだという手応えをこちらは抱きました。それを成立させるために、こちらは努力をしていかなくてはなりません。
今回は劇場という非日常的な空間での公開(発表)となりましたが、そうした日常におけるものを発表する際に気をつけている事などありますでしょうか?


山本:非日常的な空間で日常的なことを語る場合の注意、ということでしょうか? であれば、やっぱりこれは、演劇として「おもしろく」ある必要はあると思います。でなければ僕のやっていることは(何人か観客や参加者にも言われましたが)日常的なことを晒すカウンセリング、になってしまいます。発表、を想定する場合、俳優にとって有意義なことであるよりもまず、演劇作品として有意義であることを目指すべきでした。
ただ、もし今回のワークショップで、演劇作品として有意義であることを最優先に目指していたのならば、参加者と、こういう関係は築けなかったでしょうし、こうした上記の手応えもまた別のものになっていたでしょう。演劇作品としての有意義は、範宙で散々追求していることなので、別に今回(とくにワークショップで)それをやる必要はなかったし、やらなくてよかったと思います。ただ、俳優にとって有意義なことを優先していくと、次第に演劇も有意義に、なっていくんですけどね。


佐藤:私は片隅からその様子を眺めてまいりましたが、このWSではやはりまずしっかりと信頼関係が結ばれることが重要だったと思っています。なので、そこに関しては同様に手応えを感じておりますが、公開についてはこちらの見せ方の問題もありますし、これからの課題ですね。
次に、WSで行われた方法の1つについてです。今回はプロジェクターで写真を映した壁の前に演者を置き、写真が変わるごとに演者も変わるという形式でした。そこで演者から発せられる言葉は先に挙げたような外部の視点からのものでした。これはPOVではありながら外にあるカメラの存在を感じさせるものであり、写真を変えることはカット割りにも通じるかと思います。山本さんは大の映画好きという一面もありますが、創作活動においてそういった映画の影響はありますでしょうか?
(これについては身ぶりなど形態のこと、重なりあうイメージのことなども聞きたくありましたが、今回は取り下げてみます。)


山本:構造はシンプルでもたくさんの情報量を持っている、という作品は強いと思います。そうした作品にすることは常に心がけています。
実は、映画は好きですが、映画を特別持ち出して作品の手法に組み込もうとする努力をしているわけではありません。「ようし、映画をヒントにひとつやってみよう」という意識はまったくありません。それはあくまで無意識に、結果的に、映画の影響が手法に現れてしまう、くらいの距離を映画とは保つようにしています。むしろ、僕が大いにヒントにしているのは、映画を観ている時の自分の「状態」にであって、あるいは音楽を聴いている時の自分の「状態」小説を読んでいる時、、、などのように、日常的な些事から着想を得ます。例えば本のページをめくる時の自分の「状態」映画の字幕を眺めている時の自分の「状態」音楽を聴いている時の心の「状態」などです。「状態」から意図的に創作は影響されています。


佐藤:最後に、こうして他人の人生を受け止めるだけでなく演出としても付き合っていくことは、とても大変なことだと思います。なぜ、諦めずに付き合うという選択をしたのでしょうか?


山本:これは、こうした時、諦める演出家が多いからです。そして創作活動は、諦めないことが一番の誠実な姿勢だと思っています。その精神力を獲得するのは創作活動の前提のように思えてなりません。雑な感じで言えば、僕の商売上のポリシーという感じでしょうか。ただ、間違っていけないのは、付き合っていくという選択を諦めないためには、他の何かを捨てていく(諦めていく)必要もあるように思います。まあ、そうですよね、本来「選択」というのはそういうものですから。他の何かを捨てる時に迷わないこと、潔くすること、これも商売上のポリシーです。今回の場合、上記にも書かれている反省を要約して一言で言って、捨てたのは「もっともっと奥底に行く作業」です。これ、次上演にする時は、やりたいことのひとつです。