2026年9月07日(月)17:04STスポット
ー祖霊と踊る
白装束を着せられたバービー人形が、白い光の上に横たえられて出棺する。
ほとんど暗転した会場のなか、演者が人形=遺体を載せたiPadを抱えて、客席後方の扉から出ていく。扉は開け放たれたままである。舞台照明とは質感の異なる柔らかい光が差し込み、遠くのざわめきが聞こえ、空気が抜けていく。ほどなくして、彼女は反対側の扉から、やはり扉を開け放ったまま戻ってくる。薄暗い照明が灯り、外を行きかう気配のなかで演者が踊りはじめる。見たところ彼女はこの日の上演で初めて、自分のボキャブラリーを遺憾なく発揮してのびやかに踊っている。舞台裏から聞こえてくる鍵盤ハーモニカの断続的な音色。舞台脇の出捌け口から時折大きな光が入っては出ていく。
まるでその場を行きかうなにかと踊っているような、行きかう者の流れに突き動かされて踊っているような、そんな錯覚を覚える。素直に解釈すれば、運ばれていった遺体が見えない姿になって帰ってきたというところだろうか。しかし感じたままを言えば、その場を行きかう見えない者は一人だけではなかったような気もする。いま・ここまで脈々と続いてきた歴史のざわめきが演者の体を踊らせている──そんな壮大なイメージと共に、公演の白眉と呼ぶべきこのシーンを何度も反芻している。

その場に存在しないはずの者/モノがありありと知覚される状態は、上演芸術において理想的な達成のひとつではないかと思う。それもマイムのような露骨な手法によるのではなく、ただ踊っているだけでその状態を作り出せるとしたら、それはもう素晴らしいことである。遠藤七海『婆美肉魂』は、結果としてそのような上演のひとつだったと言ってよい。
本作は2026年7月、STスポット(横浜)で初演され、同月、東京都大田区の寺院である本妙院でも上演された。両者は会場の性質において正反対であり、演出も上演の印象も大きく異なる。以下に記すのは前者についてである。豪華絢爛な宗教美術を前にして霊的なものが立ち上がるのは、自然と言えば自然なことでもある。真摯に驚くべきは、あらかじめ死者のための設えなど何ひとつない空っぽの箱で、それが起こったことのほうだと判断した。

東京公演より(撮影:岩本順平)
特筆すべきは、この達成が徹底したモノへの演出によって基礎づけられていた点だろう。モノを単なる舞台美術としてではなくアクターとして仕立てるには、それ相応の演出が要る。通常、これ自体がすでにひとつの達成でもある。ただし、霊的なものを扱う本公演において、それは準備段階に過ぎない。モノは独立したアクターであるだけでなく──あるいはアクターとして独立する強度を与えられていればこそ──霊体の依り代としても機能する。
モノが依り代になること。その不思議。それはまさしく、生身の演者による上演の不思議と相似形にある。自分とは本来無関係なあらゆる記号的身体を、演者がその身に憑依させるということ。ひとたび身にまとった記号的身体を、瞬く間に入れ替えたり、脱いだりもできるということ。これら二つの不思議を丁寧に噛み合わせた先に、生身の演者が霊的なものと踊るという奇跡的な事態が生じる。つまりこの公演の最も重要な点は、演者が一度はその身にまとった記号的身体が、モノ=依り代を経由して遊離し、はては自由に振舞うに至ったことである。
ー劇場空間と受肉
遠藤はこれまで「婆美肉」シリーズとして三つの作品を上演してきた。本作はその四作目にあたる。
「受肉」はもともと神が肉の身をとってこの世に現れることを指すキリスト教の概念だ。翻ってVR・VTuber文化以降、男性によるVR空間等での女性アバター利用が定着し、これが「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」というインターネットミームで呼ばれている。ごく大雑把に言えば、どちらも根底には、肉体とそれに宿るなにかとを分けて考える心身二元論的なモデルがある。
今回の「婆美肉」は、これをもじった造語である。遠藤は実の祖母を弔う過程で、この「婆美肉」というアイデアを着想した。おじさんの魂が美少女の体を受肉して美少女のように振舞うのに倣い、故人のイメージを受肉することで故人について、「弔う」ことについて考えたい──当初、遠藤が企んでいたのはそのようなことだった。当初、と書いたのは、作品が回を重ねるにつれ、関心の焦点がその先へと進んでいったように見えるからだ。
発想の前提には、そもそも劇場自体がある種の仮想空間だという認識があるという。とはいえ、劇場での受肉はVR空間のようにはいかない。肉体の外観をまるごと乗り換えるわけにはいかない以上、生身の体のまま、別の方法で受肉する必要がある。ではいかにして、あるいはどの程度受肉するのか。
これまでの三作、遠藤はどちらかといえば直接的な方法をとってきた。祖母を思わせる衣装を着る。祖母の発話の録音を流しながらその身振りを真似る。VRゴーグルを装着し、演者が仮想空間にいるという約束事を提示しながら踊る。民家で高齢女性の身体運用を模写する。いずれも、演者の生身にわかりやすく仮想的身体の断片を重ねていく作業である。こうした装置は、本作ではほとんど外されている。衣装はTシャツとデニムの一着きり、ゴーグルも使わない。そして、結果的には明らかにそのほうがうまくいっている。

『婆美肉考』(2025年 撮影:前澤秀登)
現象的身体と記号的身体のあいだにある緊張関係は、演劇をめぐる議論の歴史において常に問題になり続けてきた。ドイツ語には「身体」を指す語としてライプ(Leib)とケルパー(Körper)の二つがある。前者が精神的な主体と切り離せない現象学的・全人的な身体を指すのに対して、後者はしばしば道具・モノとしての対象性をもつ、記号としての身体である。議論の的となってきたのは、自身とは異なる人物像を表現する演者の身体において、両者がどのような関係にあるかという点である。
かつては心身二元論的な認識の枠組みのもと、俳優はいったん脱身体化を経たのち役を身体化することで演じるべきだと考えられており、排除しきれないライプはもっぱら邪魔なものと見なされていた。20世紀初頭のイギリスの演出家エドワード・ゴードン・クレイグは「俳優を舞台から排除しなければならない」とまで主張したという。当然ながらこの認識は心身二元論の克服とともに移り変わり、今日ではむしろ、役のケルパーはあくまでも俳優のライプを必須の基盤として立ち上がるのだと考えられているそうである(エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭ほか訳、論創社、2009年)。とはいえ、21世紀日本の劇作家である平田オリザにも「俳優はロボットでよい」という発言があり、このあたり、科学・技術や社会の変化に伴う流行り廃りもあるのだろうと思わされる。
まあ、正直どちらでも構わない、というか、実際にはそのどちらも活用できるのが上演芸術の面白さなのではないか。
すでに見てきた通り、今回演者はもはや衣装や録音やゴーグルで祖母の記号を外づけせず、生身の身体から直接それを立ち上げている。反面、今回も依然として標榜されているのは「受肉」という心身二元論的なモデルである。つまり乗り越えられたはずの古い二元論は、演者の身体にではなく、観客と共有される約束事の側に置かれている。この二重性が、不可視の記号的身体を傍らに往来させるという企みへの道を拓いているわけだ。
ー霊魂の受け渡し
とはいえ、それは言うほど簡単なことでもない。まず記号的身体の扱いをめぐる約束事を共有する必要がある。次いで、それを現象的身体に憑依させ、続いてそれが切り離されて遊離したことを理解させる必要がある。そのうえで、遊離したそれの挙動を想像させる必要がある。文字通り幽霊を登場させるわけにはいかず、かといって演者が幽霊を表象したままでは目的を果たさない、となれば、演者を取り巻くモノへの演出によって、幽霊の導線を丁寧に描く必要がある。
上演は、高齢女性の普段着を着たバービー人形がびっこを引いて歩くところから始まり、ご焼香に似た謎の儀式の果てにナスで作った精霊馬が到来するところで終わる。動く人形が魂の器であることに殊更の説明は要さないし、これが途中で白装束に着替えるとなればなおさらだ。精霊馬に霊が騎乗していることも、わざわざ説明するまでもない。さて生身の演者はというと、これら二つのモノの間で記号的身体の中継地点のような役割を果たしている。
遠藤は客席後方で取り出した人形を2本の足で床に立たせ、自らは黒子として地を這うように人形の足を運んでいく。舞台に立った人形は遠藤の声を借りて、客席を見渡しながら身振り手振りを交えて上演前の注意事項をアナウンスする。彫りの深い顔に影が落ちて、私たち観客はいつのまにか小さな人形の挙動に目を凝らしている。

スピーカーの上に座った人形はクリック音の振動で細かく震えはじめ、音の高まりとともにガタガタと大きく揺れて後ろに転落する。直後、今度はナスを咥えて登場した遠藤が、ゴム手袋に引っ張られるようにしてバイブレーションとアイソレーションを多用した非人間的な語彙で踊りはじめる。人形と人間とのあいだで共有された運動は、人形に人間らしさを与え人間の人間らしさを薄めていく。両者はちょうど中間あたりで落ち合って、魂の器として等しい地点に立つ。

以後この上演のフォーカスは、照明効果の念入りな活用によって人形と遠藤とのあいだを何遍も往復する。その行き来に魂の受け渡しを看取してしまうのは、観客にとってごく自然なことだった。プロジェクターの白い矩形の光が遠藤の身丈にぴたりと合わせられたのち、そのまま人形の身丈に合わせて詰め直される。棺桶の寸法直しである。棺桶に収められた人形は光の上に横たえられて運び出され、舞台から器のひとつが消える。ついに演者が自分の服で、自分の語彙で人間らしく踊るとき、その傍らに器を失った霊魂が漂うのを感じることはそう難しくない。

実際のところ、霊的なものの挙動をめぐる想像力と約束事は、私たちの日常に深く根付いたものでもある。伝統宗教が力を失って久しいが、私たちは今なお葬送儀礼の形式を通じてフィクションや身振りを共有している。魂は個人の遺体から白木の位牌へ移り、さらに四十九日を経て塗りの位牌へ移る。故人の霊は四十九日まで香りを食べることから、葬儀の参列者が代わる代わる焼香することによって故人の腹を満たす。もっとも、参加者の全員が細かいことを知っている必要はない。儀式への加担を通じて、そこにいる何者かが弔われている実感が生じることに意味がある。
上演の最後、観客はご焼香に似た謎の儀式に参加することを強いられる。一列ずつ起立させられて参列を促され、前の人の所作に倣って、ぬか床に向かって正座でお辞儀をしたのち、手を入れて天地を返す。参列者が順繰りに焼香をすませるうちに、気がつけば天井に吊るされたナスの精霊馬が、ゆっくりとぬか床のほうへ向かっている。
葬儀、盆、そして日常動作が継ぎ接ぎされたこのナンセンスな儀式には、奇妙なことに、冠婚葬祭特有の絶対に笑ってはいけないが笑いたくなるような空気が確かにあった。どうやら整合性の有無は、儀式の効力とは無関係らしい。全員が順に同じ身振りをしたことで、儀式は成立し、故人とご先祖様が牛に乗ってやってきた。そのような想像力が、おそらくは参列者全員のうちに共有されていただろう。そして、こうして行きわたった想像力は鑑賞体験を遡行する。ああそうか、冒頭に描写したあのシーンは、遺体として運び出された故人が霊魂として──おそらくはご先祖様と共に──ここへ来る途中の往来に出くわした、といった情景だったのだろうか。

ーテーマとダンスの相互作用
さて、忘れてはならないのは、ダンス公演と銘打たれた以上、評価されるべきはダンスそのものの面白さだということだ。観客は幽霊を見に来るわけではない。上記の企みを通じた体験価値の核心は、想像上の幽霊の挙動が生身の演者のダンスをどう面白くしてしまうのか、という点にある。結果はすでに、冒頭に描写した通りである。
ダンスが面白いとはどういうことか、というのはそもそも困難な問いでもある。そしてそれゆえに──ということだと個人的には理解しているが──コンテンポラリーダンスの世界では、しばしば上演をめぐるテーマやコンセプトが設定される。ダンサーや制作者は常に、それが何のためのダンスなのか、何を念頭に置いたダンスなのか、という説明と自己定義を求められる。しかし本来、私たちは身一つでも踊れるし、芸術的な達成やコンセプトの不在がダンスの面白さを削ぐとも限らない。端的に言えば踊りがよければそれでいいわけだが、どうやら様々な事情からそういうゲームにはなっていない。まあそれはそれで構わないのだが、テーマが導入された以上、そのテーマが否応なしにダンスを面白くしてしまうのでなくては困る。
個人的に鑑賞の喜びを感じる局面のひとつは、ダンサーが何に踊らされているのかがありありと見えたときである。振付とか、権威とか、規律とかだけではなく、その人を踊らしめる力そのものの美しさが見えること。その人の体の来歴、その人をいまここまで運んできた力、そして、いままさに動かしている力。問題のシーンを高く評価する理由は、二つのレベルでこれが達成されたためである。往来する祖霊と共に踊っているかのようなフィクション・コンセプトのレベルの面白さと、そこまで秘匿していた自分の語彙を遺憾なく発揮して踊るダンスそのものの面白さが絶妙に重なり、相互作用を生んだ。弔いというテーマは、かくしてここに成就すると同時に、ダンスに存分に奉仕していたことになる。
*上から2.3枚目以外の写真は横浜公演記録映像より抜粋(撮影:樋口勇輝)
【公演情報】
遠藤七海 『婆美肉魂』
[横浜公演](「ラボ20#24」ラボ・アワード受賞者公演)
日程:2026年7月11日(土)・7月12日(日)
詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=14621
[東京公演]
日程:2026年7月25日(土)・7月26日(日)
会場:本妙院(東京都大田区)
詳細:https://invited-tower-0f8.notion.site/350d93de73a980cd8529c2147cba5259?pvs=74