2025年4月30日(水)18:00STスポット
執筆:松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ
「ラボ20#24」の本公演が2025年2月27日(19:00)・28日(14:00、19:00)・3月1日(14:00)に全4公演おこなわれた。キュレーターは「ラボ20#12」(2002年)にも参加した康本雅子。この公演に先立って、参加者同士の合同稽古や、11月には中間発表が行われた。中間発表では観客を交えたディスカッションの場も設けられた。
執筆者(松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ)は、中間発表と、今回の本公演を複数回観劇した。毎回の上演ごとの違いから、上演を通して何かを掴んでいく様子も伺えたが、基本的には3月1日の千穐楽をもとにこのレポートを執筆する。
前置き——実験って?
コンテンポラリーダンスの作家発掘・育成を目的として1997年に開始された「ラボ20」は、キュレーターとともに参加アーティストが20分の作品を作り発表するショーケースである。ただし、作品発表のみならずプロセスを重視しており、その名の通り「ラボ=実験室」としての意義が強調される。また、参加作家のうちの一組に「ラボ・アワード」が授与される。
「実験」という言葉は成功/失敗という評価軸に還元されないプロセス重視の姿勢や、未知の作品・実践を創出させるための苗床を意味するものとして、芸術実践の場ですでに日常的に用いられている。その方法も無数で多様である。方法を規定する規範も芸術実験には存在しない。
実験とは、科学の作法で言えば仮説と検証のプロセスである。結論が未規定の状況で、ある仮説を立てて実際にやってみること。芸術の場で言えば「これやってみたら面白いんじゃないか」くらいの気分(仮説)でやってみる(検証)というのも実験といっていいだろう。ここから敷衍して、実験にたちあう観客には二重の問いが設定されると考えられる。それは「なにをやろうとしているのか?」と「なにが起きているのか?」である。実験という観点を徹底するならば、このどちらもが曖昧なものとして受け止められていいし、受け止められるべきかもしれない。
ところで「コンセプト concept」という言葉がある。コンテポラリーダンスでも近頃当たり前のように用いられ語られる語である。通常「概念」と訳されるこの語は、conceptionが「受胎」を、conceiveが「捉える」を意味するように、先立って持っているものというよりも結果として持たれるものというニュアンスをふくみもつ。実験と関連づけるなら、なにかを試し、その結果持たれたものがコンセプトとなる、ということなのかもしれない。だからコンセプトを立てて、それを表現するという順番ではないような気がする(もちろん、やってみた結果えられたコンセプトをもとに作品や実践をさらに発展させるということはあり得る)。
(リサーチベースのダンス作品を近年制作してきた)わたしたちの実践においても、やってみたいアイデアが浮かんだとき、突き詰めて考えると実はそれがなんなのかよくわかっていないことに戸惑うことが多い。クリエーションをすすめていく試行錯誤の過程で、そのアイデアは練られていくいっぽうで、さらによくわからなくなっていく。それが面白い。この面白くて、よくわからないものと付き合いつづけることが「実験」と呼ばれる何かな気がする。仮説の検証は簡単に完了しない。
だから、おそらく、作品という形を求められているのだとしても、「ラボ20」という場がそれぞれの作家に手渡しているのは、自分のアイデアのそのよくわからなさにとことん向き合うために必要な「20分」なのではないだろうか。「ラボ20」に参加する作家たちは、「作品」を発表するという場で、そしてその場を見据えた上でのプロセスで、とことん「実験」をするためのそれぞれの走りかたを探すことも必要になってくるのだと思う。そこでは奇妙なバランス感覚がもとめられる(おそらく観客にも?)。
ここからは、それぞれのアーティストがなにを「実験」しようとしていたのか、その結果なにが立ち現れていたのかを、上演に観客として立ち会ったわたしたちの視点から記述してゆく。と、ここまで書いて気づいたけれどこれはフツーのレポートの形式である。
ただ、ひとつ断っておきたいのは、なにが起きていたのかの網羅的な記述は目指さない。わたしたちの印象に残ったシーンを重点的に取り上げる。それは、何か「面白い」ことが起こっていたと感じた場面と言い換えていい。
AtannT『LIVE MOVIE』
大西優里亜と青柳潤によるAtannTの作品は、「映像」をモチーフにさまざまな身体表現を試みるものであった。映像編集の手法——カット割り、反復、逆再生や早送りなどの時間操作、そして身体イメージに別のイメージを重ねる手法——を舞台上で展開されるダンスに応用し、さまざまなアイデアを提示していた。三つの場面が印象に残った。
一つ目は、冒頭の、床に置かれたボールが微細に揺れる場面だ。動画を早送りすると、静止しているように思われていたモノが実は微妙に動いていることに気づくことがある。身体を早く動かしても、早送り「として」速く動いているようにしかみえないが、舞台上のボールの運動は、普段は止まって見えるものの周りで働く微小な力にズームインして視覚化しているように思えた。視覚的な世界に潜む運動や力を観察する方法としての映像の可能性を強く感じさせる場面だった。
二つ目は懐中電灯を用いた光の演出だ。映像とは光である。その光はカメラによって切り取られたものに他ならない。その原始的な作用に迫っていたように思われたのが、手持ちの懐中電灯を用いた場面だった。たとえば、まっくらな空間で大西が用いる懐中電灯の光が当たったところだけが明瞭な知覚の対象となること。あるいはストロボに設定された光で青柳を照射することで、青柳の踊りが勝手にコマ送りのような動きとして知覚されることなどにその作用をみてとることができる。さらに、懐中電灯の光を自分(たち)の身体に当て、身体の影を壁や天井に映し出すことで、映像の光を通じて身体が空間を自由に移動し、転移するようにも見えた。光による切り出しとそれによる知覚の変化は、両者が当日パンフレットにて説明する「鑑賞体験における感覚」の「バグ」をもたらしていたのではないか。
三つ目は、最終盤の青柳によるダンスである。この場面で青柳は、それまで操作的な仕方で構成していた舞台上の時空間から離れるように、身体を前にせり出させて身ひとつで踊る。その動きは映像の反復「として」、再生/逆再生「として」踊っているというようにも読み取れないわけではないが、映像という元々の関心の外に出ていくようにもみえた。なんで観客席のほうにむかってきているのか、なんで素肌にスーツなのか、わからなかったけれど面白かった。
一つ目と二つ目の点をふくむ前半部分で、ふたりは「映像」の働きや編集作業を舞台表現として模倣しようとするさまざまな試みを散りばめていたのだが、それをやろうとしたときに生まれる「まったく完全な再現ができないアマチュアな感じ」も印象深かった。映像的な操作をめざしてはいるものの、身体や物体には簡単に編集されることを阻む重さや奥行きがあることが、明らかになっていく。しかし、それによって身体や物体の「ナマ」感が賛美されているわけではない。最後の青柳のダンスでは、編集可能なイメージ素材として身体を繰り返し提示することを経て、「物体」としての身体の重さや運動があらたなかたちで示されていたのかもしれない(ただ、このように分析はしてみたものの、最後の素肌にスーツを着て踊る青柳のかっこよさ・魅力がどのようにそれまでの映像編集的な手法と結びついているのか、うまく言葉にできてはいない。納得のいく説明ではない。もしかしたら、謎の、既視感のあるストーリーの匂わせも含めたギャグっぽさがあったのも良かったのかもしれない。そういえば、中間発表のとき、二人は「シュール」を目指していると言っていた・・・)。
遠藤七海『婆美肉考』
遠藤七海は自身の祖母である遠藤百合子を「振付」として迎え入れ、ダンス作品を制作。冒頭の場面で、(おそらく)祖母のものと思われる衣装に着替え、ゴーグルを着用し、(おそらく)祖母の語りと身振りを再現する。その後、遠藤は立ち上がり、ゴーグルをはずし、口をパクパクと動かす奇妙な表情を形成し、さきほどの語りの録音音声をスマホで流しながら動き始める。さらにその後、ふたたびゴーグルを着用し、大音量のEDMとともに、冒頭の祖母の動きを反復しつつ、そこから逸脱するように走り回り、激しく踊る。
他者の動きのトレースという試み自体は決して目新しいものではないが、「振付」とクレジットされた祖母の動きを、出演する遠藤七海がトレースするという行為からは、遠藤七海自身の切実さのようなものを感じた。祖母の存在感もそこにはあったように思う。このように登場した「振付」としての祖母と出演者である遠藤七海の関係がこの後どう研究されなにをもたらすのか、という点に関心を持ちながら作品をみていた。そこで導入されていたのが、「ゴーグル」である。
タイトルやパンフレットに書かれている「婆美肉/バビ肉」という言葉から、遠藤七海が作中で着用していたこのゴーグルはたぶん、(おそらく)VRゴーグルを模したものなのかもしれないということが連想される。そこから、ゴーグルの画面にはアバターとしての遠藤百合子が映っていたのではないかと想像する。だとしたら、遠藤七海の動きは祖母=アバターを動かす身振りであると同時に祖母=アバターに動かされる身振りでもあるのか。祖母の動きと言葉と服を身に纏いながらゴーグルを着用する遠藤七海は、祖母と混じり合った姿でそこに立ち、踊っている。ただし、そこで出現する走り回り激しく踊る動きには元々の祖母の動きはほとんど残っていない。それらの動きの出所は観客には明示されない。そのような仕方で遠藤七海と遠藤百合子が混じり合った存在を、観客の前に立たせ、踊らせるのはだれなのだろうか。
祖母の言葉と動きを再現するという試みは、ある意味ではモチベーション含めてわかりやすく、それを徹底するという道筋もあっただろう。しかし、遠藤はSTスポットという劇場空間をVR空間にみたて、そこにおいて自分の身体と祖母の身振りを混ぜ合わせ、そこから大きく逸脱していく自らの踊りを「受肉」と呼ぶ。少なくともわたしたちはそれをどのように受け止めればいいのか「不可解」であった。
ただ、この謎を抱えたまま見ることになった終盤の場面。祖母の実際の録音音声で語られる「ラーメンを食べたい」という言葉を引き受け、遠藤七海自身がカップラーメンを食べる場面は印象に残っている。それは祖母の横で食べているようでもありながら(祖母はバービー人形を介してその存在を示し出している)、祖母の「代理」で食べているようでもあった。ラーメンをすする音、匂い、それらの生理的感覚を伴いながらラーメンを食べる遠藤の姿は、祖母の動きをVR技術を借りて反復すること以上に、祖母へと接近しようとする遠藤の関心を支えていたように感じた。
天野朝陽『Hazy Jive』
開始直後、暗転状態から明転した舞台に、革靴を履いて首倒立をする天野朝陽の逞しい筋肉質の背中がみえた。逆さまになった身体が踵をすりあわせながら革靴を脱ぐ。革靴が一足ずつ地面にぼとっと落ちる。靴を脱ぎ終わった背中はころんとまるまり、一回転して観客の方に顔を向ける。その頭には白くて柔らかいニットで編まれた赤ちゃんの帽子をかぶっている。天野はうずくまり、生まれたての新生児の身体をそこに出現させた。この作品で、印象に残っている場面が二つある。
一つ目は、滴り落ちる水の音に包まれながら、天野=赤ちゃんが、まだ立てない新生児のようにお尻を床についた状態で手先や足先を微細に動かす場面である。うずくまったまま、溢れ出す意味以前の把握・統御不可能な「過剰」な感覚に反応するように、天野は身体を微細に振動させる。その動きは次第に、土方巽や大野一雄を思い出させる。しかし天野は、病人や老人(土方)でも少女(大野)でもなく、「赤ちゃん」を他者として自身の「力強い」身体に宿す。
その後、天野=赤ちゃんは引き摺り出されるように立ち上がり、「世界」に触れながら歩き回るようになる。つまりだんだん成長(?)していく。そこでの自分の手や足、周囲の環境などにとまどいながらじたばたする姿は、大人が頑張って「子どもの真似」をすることを演技しているようにも見えた。しかし、まもなくその後、アコースティックギターの音楽が挿入され、「子どもの真似」やそれまでの力みを蹴散らすように、天野は胴体をあらぬ方向にうならせながら踊りはじめる。
ここからが印象に残った二つ目の場面である。四肢は縦横無尽に伸び上がる。背骨がうねる。そこにはさっきのじたばたとは異なる質感があり、感情の激流のようなものが(「歓び」といっても良さそうだがそれだけではなんだかチープな感じさえしてしまう)感じられた。うねる身体の動きやその身体を突き動かす「感情」は未知であり、そこには生まれたての赤ちゃんの身体を宿す冒頭場面に通ずるような「過剰」さがあった。
ここで取り上げた二つの場面は、行われていたことは異なるが、しかし、統御できない過剰な何かが身体を貫いているという点において通じているように思える。ここでの過剰さは、天野自身が感じる過剰さであるとともに、そのすべてをみることができないという観客にとっての過剰さでもあり、もしかしたら世界そのものの過剰さと言ってもいいのかもしれない。「子ども」の真似を演技するというのでは感じられないような、文脈や動きや感情の過剰さが、これら二つの場面で天野の身体にみえた。
冒頭、赤ちゃんの帽子をかぶり、転がって現れるというアイデアは、まさに子どもが、まわりのひとや大人を驚かせたくてふざけてみせる仕草のようでもある。しかし天野は終始、登場させるそれぞれのイメージやモチーフにたいして真面目に取り組み、踊っているようにみえた。アイデアの軽やかさと、踊りや思考にたいする真剣さのアンバランスさが、過剰なほうに振れる、その瞬間がみえたとき、それは端的に、とても魅力的だった。
オフィスマウンテン『トリオの踊り』
オフィスマウンテン『トリオの踊り』は、山縣太一の戯曲「トリオの踊り」を今井あこ、富髙有紗、堀越理子、宮﨑輝、宮崎玲奈、横田僚平の6名が上演(中間発表で出演していた飯塚大周はクリエイションメンバーに)。20分の間、6人の出演者ひとりひとりの身体で、実にヘンテコな動きを繰り広げ続けていた。笑いが生じるほどにヘンテコなのだが、しかし秩序はある。ヘンテコなのに秩序があるのは、出演者たちがやろうとしていることが具体的で明瞭だから。その明瞭さは戯曲の内容が、身体への意識を向けさせる内容であることも無関係ではないだろう。ピンマイクを使用した音の演出、照明変化、出演者の出入りがリズムを構成し、STスポットの空間を伸縮させる。
過去に見た『トリオの踊り』演劇版や中間発表と比較して、この上演では戯曲がまるで踊りのための舞踊譜(スコア)のように機能していた。まず、極限まで物語の筋が解体されている。物語の順番や場面が断片化されているだけでなく、声量や発話の方法のレベルでも解体される。結果として身体がせり出す。目の前に事実として現れてくる身体やその動きに観客を集中させ、出演者ひとりひとりの身体に注意を向かせる。
出演者全員はそれぞれに戯曲の言葉をトリガーとしながら、同時にそれを音楽のようにも用いながら、身体を微細なレベルで分割・連動させ、さらに出演者同士の身体もまたトリガーとしてさらに身振りを複雑化させていく。たとえば、ある横田の発話の場面を映像記録をもとにみてみたい。「踊りたいひとために 人のために踊 イカやタコ タイやヒラメが筋トレをしてい まんなかからうちに向かっているただそれだけ 移動 それ 質からそれただけ マイケル いる~ それただけ 老人 する~ ベニテン ダ~ケ~ 人の喉の窓きもち いつもより開ける いつもより真ん中 外に向かう」。横田は舞台中央から少し下手側に逸れたあたりで正面を向き、肩や足の裏、腕、手の指や顔の筋肉など細かい部分をもじょもじょと動かしながら、切れ切れにこう発話する。それまで激しく動いていたまわりの出演者(堀越、宮﨑、宮崎)は、戸惑ったように、速度が落ちる。横田の発話につまづいているようにみえる。観客の正面に今井が立って、聞こえない声の大きさで戯曲を発話しながら、手をすりすりこちらをみている。冒頭から背中で・全身で一部始終を見聞きし、バランスをとるかのように動いていた富髙は、このときも今井とほかの4人を横から見て、自分の位置を横田とほぼシンメトリーの位置に定め、落ち着いた様子で胃のあたりから全身をくねくねさせて動く。
わたしたちが見ているそれぞれの出演者は、あるいは出演者の身体は、わたしたち観客席のほうを見ていた。出演者同士も見合っている。 見ているというのは、見ている出演者「として」舞台上にいるのではなく、本当に「見て」いる。それも、レクチャーパフォーマンスのように「私」を提示するという目的のもとに観客や他の出演者を見るのではなく、出演者として立つそれぞれ固有の身体がそこに事実としてあるためにこちらを見ている。背中を向けていても、見ている。
劇場でダンス作品を上演するということは、人に身体を見られるということである。人に身体を見られるという事態は尋常ではない。人前にでることで恥ずかしくなったり、かっこよくみられたくて虚勢をはりたくなったりする。その尋常ではない事態が、出演者が舞台に入ってきてそれぞれの身体がこちらを振り向く、という開始一秒くらいのあいだにわたしたちに共有され、持続する。
感情や、ストーリーや、従来のダンステクニックを省いたさきに、出演者の筋肉自体、身体自体、声自体が提示される。そのための緻密な設計がある。稽古がある。そのような剥き出しの出演者の身体は、わたしたち観客席のほうを見ていた。出演者同士も見合っている。 わたしたち観客の身体もそちらを見ている。お互いに興味をもっている。つまり、「劇場ダンス作品」においてとても基礎的なこと(だけど、すぐに忘れられてしまうこと)がそこには現れているように思われた。
※補足
ところで、オフィスマウンテンのパフォーマンスは、オフィスマウンテンを立ち上げた山縣太一の演劇・演技のためのメソッドを用いている。今回もおそらくそうだったと思われる。山縣のメソッドは彼がさまざまな場所で書いたり話したりしているように、かつてチェルフィッチュでの試みを通じて培ったものであり、かつダンサー/振付家の手塚夏子の方法論をベースとしている。チェルフィッチュも手塚夏子も、振り返れば広く2000年代の日本のコンテンポラリーダンスの実践という圏域のうちにあり(「ラボ20#18」のキュレーターはチェルフィッチュの岡田利規だった)、山縣太一もまたそこで活動していた(たとえば吾妻橋ダンスクロッシングへの複数回の出演)。STスポットも、そこで行われていた過去の「ラボ20」も、2000年代の日本のコンテンポラリーダンスの盛り上がりの渦中にあったと聞いている。「ラボ20」再開から三度目のラボに、山縣の(演劇のための)メソッドを用いたパフォーマンスが、ダンスのショーケースという場で、山縣抜きで披露されたことはある意味では歴史の継承と再読(歴史の連続と非連続)という試みであったとも捉えることができるかもしれない。つまり、日本のコンテンポラリーダンスをひとつの手がかりとしてうまれた演劇のメソッドが再びコンテンポラリーダンスの場にかたちを変えて持ち込まれたのだと。
それが現代の観客とオフィスマウンテンの出演者と「ラボ20」参加アーティストたちにどのような意味をもたらしたのかはわからない。また、オフィスマウンテンのメソッドを「ラボ20」へと持ち込むという試みがどこまで「実験」的であったのかは判断がつかない。けれど、執筆者の関心から、書き残しておきたいと思った(そもそもそのような歴史との連続性をそこまで意識する必要は観客にも参加者にもないだろう。しかし、やはり、この企画は「ラボ20」と銘打たれている)。
【公演情報】
「ラボ20#24」
2025年2月27日(木)ー3月1日(土)
詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=13357