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民俗芸能調査クラブ 糸島レポート(2) 武田力:「わたし」が織りなす街との「こすれ合い」を。|2015年6月

2015年6月17日(水)15:44アーカイブ

 世界が像を結ぶ、それはどんなときでしょう? 片方の視線と、もう片方の視線とが交錯する点を世界とするなら、変化し続ける世界へのピントをわたしたちは合わせられているか? 偏りを抱いていることに自覚的か? かたっぽの視線だけで世界を捉えてはいないか? そんな日々繰り返されるピント合わせがしんどくなったとき、その調整に人は旅へと出るのかもしれません。

 でも、生活と旅は根本的に違うものです。生活にはある「反復」が求められ、旅にはある「瞬発性」が求められる。旅人には旅人の、住民には住民の、それぞれにしか出来ないことがある。なら両者が混ざり合えば、とても面白い発見があるのかもと思ったりします。

 このひと月で別府にいって、大阪にいって、岡山にいって、彦根にいって、浜松にいって、京都にいって。滞在した時間はそれぞれに違うけれど、どこにいってもわたしは異物で、だから街は異質に見え、そんなわたし自身も揺らぎ決して一定ではないけれども、そうして結ぶ世界は、街も人もいろいろ。それだけ街も人も可能性に溢れているのでしょう。そのことに「土地に住まう」住民たちは意識的でいられるのか? 反復に得るもの、また失うものとはなんでしょう?

 ところで、わたしがここで「住民」と呼んでいる人たちは「一般人」とも呼ばれることがあります。つまり彼らはユーザーで、わたしみたいなアーティスト(なんて呼び方は嫌いだけれど、あえて使えば)は専門家になる。でも専門家は分野ごとに存在します。異なる視線から世界を結べば、わたしも住民であり、一般人。いずれにせよ、そういった専門家がゴタクを並べれば、一般人は「わたしにはわからない」と専門家から提示された視線で世界を結ぶことなく、拒否することもままあります。でも、わたしを含む一般人にも世界はあり、それは個々に特殊でしょう。だってだれかの世界が、だれかとまったく同じであるはずがないし、裏を返せば、それぞれになにかの専門家だということです。

 そんなひとりひとりの世界に直接アプローチして、記憶や体験を呼び起こし、それを参加者自身が固有の方法で捻ったり、舐めまわしたり、撫でたりしてみようというのが、民俗芸能調査クラブでつくった『踊り念仏』。誤解されやすいけれども、それでも誤解されやすい言葉をあえて充てれば、「参加者が自身の内に〈神〉を見出す」ような作品です。だって普段の自分と比較して異物を想い、踊り、でもそんな「異物であるわたし」の出現を日々においては〈悪〉とするのは、現代を前提にした偏見で、そんなあなたの「B面」も、現代社会には不要でも、あなたにとっては必要であるはず(詳しくは、調査クラブ報告書内『だから「踊り念仏プロジェクト」と名づけて、「遊行」しようと思う』(P42)を読んでもらえれば)。そして、反復(生活)と瞬発(旅)は「街を歩く」という日常的行為の大きな要素ではないかと思うのです。反復は感覚の鈍化を招きがちだけれども、そんな些細な日常に「生きる」という行為は隠れているのではないかなと。そんな「生きる」を『踊り念仏』で個々に探り出し、手に取って感じてもらえたら良いなあと思う、今日この頃です。

「此花」という土地での『踊り念仏』
http://youtu.be/QBdWDcqgom4

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