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「ダンスと演出」研究会 第一回 リサーチを終えて(木村玲奈)

2022年9月18日(日)12:32STスポット

この夏、振付家 木村玲奈と演出家 萩原雄太は『ダンスと演出』をテーマにSTスポットにて協働リサーチを行いました。
本リサーチは、木村玲奈が4月に振付を行った作品『6steps』を題材にスタートし、最終日は一般公開で活動報告会も実施しました。

8日間(うち2日間オンライン)、約40時間のリサーチ時間を木村・萩原の両名がそれぞれ振り返りました。

萩原雄太による振り返り → https://stspot.jp/mag/202209-02/


ダンスと演出
文:木村玲奈

 

ダンス、振付、演出について30 – 40時間くらい話し真剣に考えたら、私自身なんと名乗ればいいのかわからなくなりました。←良い意味です。演出家 萩原雄太さんと、立ち会ってくださったSTスポット萩谷早枝子さんとの『ダンスと演出 研究会』(2022年7月2日 – 4日、22日、 23日、 8月19日 – 21日 全8日間) 、非常に有意義な時間でした。8月21日の活動報告会にご参加いただいた方々、時間が経って何か思うことや発見があったら、いつでもご連絡ください!立ち会っていただき、ありがとうございました。

ここからのテキストは、活動報告会直後に忘れたら嫌だからザザーっとまとめたものです。乱文でごめんなさい。でも正直に書いたものなので、このままST通信に載せることにしました。
研究会で行ったことメモ
・『6steps』の映像を見て、「振付」と「演出」に分類する, 『俺が代』の映像を見て、演出を抽出する
・『KIMURA Choreography Award』と『萩原演出家コンクール』の審査基準について考える
・『ダンスが起こる瞬間』について、それぞれ持ち寄る
・作品をつくる上でのヒエラルキーについて話し合う
・それぞれの自宅で『6steps』を行う
・『6steps』の振付書を作る(木村)
・これらに付随した様々な話をする / 約40時間

私は今までクレジットに演出と書かないことが多く、それは振付の中に一般的には演出と呼ぶのかもしれない演出的な振付・要素が含まれていると感じてきたことと、「振付」を大切にしたいという願いや意志表明があったことに気付きました。
今回 私が振付を担当し(クレジットは無いですが、私とメンバーで演出)、4月に青梅市文化交流センターで上演した6steps を題材とし、振付と演出を分けてみる作業を踏み、6steps 振付書【上演編】を作成しました。(そして、販売しています。購入を希望される方は木村までご連絡ください。)
リサーチの中で、萩原くんから演劇の場合、戯曲を売るんだよと聞いて、びっくり。知ってはいたはずなのに、改めて驚きました。ダンスでは、振付書を戯曲のように売ることはあまりされていないように思います。振付書を公開したり販売していきたいと思っていた私は、よーし6stepsの振付書を販売しよう!という気持ちと、6stepsという作品を守らなくては!という謎の二つの気持ちが生まれたり、振付書を開示することで何となく自分が身包み剥がされるような恥ずかしさをおぼえたりしました。この「自分との切り離されなさ」がダンスの難しさでもあり、面白さ、惹かれている部分でもあるのだと、整理できました。
「自分との切り離されなさ」を考えた時、演劇とダンスにおいて「誰に (何に)」演出をつけたり、かけたりするのか (←言い方については後ほど) という点においても深く関係してきます。演劇の場合、まず戯曲があり、役や架空の何か・誰かを挟んで、それに対しての演出をかけたり、皆で作り上げていくことが多いと思うのですが、ダンスの場合、振付 (動きの種など) はあるものの、それを踊ってくださる人はやっぱりどこまでいってもその人で、その人に対してかける演出は、何かを介すことが難しく、その人への直の演出に繋がっていくと感じます。演出家から演出という意味で指摘を受けても、自分はうまく踊れないんだ、と思ってしまったり、小さい頃からダンスを習っていたりすると自分は踊れないとか、あの人はすごく踊れるとか、比較されて大人になります。自分も含め、様々なコンプレックスを抱えながらそれでも、ダンスを踊ったりつくったり関わっている人が多いのは、この「自分との切り離されなさ」からくるのかもしれません。

 

演出をつける
演出をかける

 

皆さんはどう言いますか?
私は「演出をかける」と言っているのですが、萩原くんは「演出をつける」で、調べたら一般的には「つける」だそうです。
自分のイメージは、演者の方、ダンサーさんの身体が既に世界であり、状況なので、空間に身体が在るだけで何かが起こっていると考えています。そこへ振付を渡すことで、さらにダンスが起こる可能性が高くなり、それだけでも作品になり得ると思っているのですが、さらにそこへ調味料をかけるように、もしくは魔法をかけるように、演出と言われるかもしれない何かをふりかけていくことで、演者さんがより輝いたり、空間に存在しやすくなったり、美味しくなったり、観客もそれぞれが作品を美味しく召し上がることができる、そのようなイメージです。だからやっぱり「つける」じゃなく「かける」なんですよね。もちろんダンス、演劇と分ける前に、木村と萩原の場合ということもあるのですが、「かける」「つける」という言い方の違いも興味深いなと。
演出は、演者に加え、観客に対しても「つけたり」「かけたり」する必要がありますよね。観客に対しても、「演劇・ダンスを観にきた人 (構造的に捉えて)」に対しての演出と、足を運んでくれるそれぞれの個人に対しての演出だと大きく異なる気がします。もちろん個人は千差万別なので、同じような効果を全員にかけることは無理なのだと思いますが。
こんな風に「演出」を考えていくと、「作品」は観客も含めその場に立ち会っている人みんなでつくりだしているものだと、改めて再認識しました。私個人の見解ですが、舞台で起こっていること、アクティングエリアと呼ばれるところで演者が行うことだけが作品ではなく、もっと他のところにも作品は存在し得る、そんな気がしています。(長年こう思ってきたので、『6steps 』の創作を始めたということもあります。)
ここでまた「振付」の話になりますが、振付書、スコア、指示書をつくることが振付家の仕事だとしたら、自分ではない誰か (演出家) が上演という形で作品を立ち上げ広げてくれることや、振付書さえあれば他に説明をする必要が無い気持ち良さがあるのと同時に、演者の身体が作品となるまでの過程や上演を見届けることができない寂しさ・虚しさがあると感じました。私は演者の身体を眺めること、見つめ続けることがとても好きなので、これができないのは悲しすぎます。
となると、私は振付家でもあり、演出家でもありたいということなのか?萩原くんから聞いたお話で、プロダクションの大小にもよるけれど、演出家は演出をつけたら全部の本番に立ち会ったり見たりしない、とのこと。なんと、、、、、、、じゃあ私のこの作品として立ち上がる全てを(過程も、演者の身体も、観客の感じも、全ての上演も、上演後の未来も) 眺めていきたいということは、なんの職種に(クレジット) になるのでしょうか?ただ単にそれが「木村玲奈」という人間だということなのか?
「演出」は、技術的な側面もあると同時に、感覚的で意図的な作業・仕事だと今回のリサーチで再確認しました。もちろん答えなど出ていないのですが、この「演出」作業、私は今まであまり得意ではないと感じてきました。ですが、今回のリサーチを通して、自分なりの演出は存在していたことが判明し、振付と演出も切り離せなかったり、振付と自分、演出と自分も切り離せないとわかりました。もちろんここを切り離せる方がいることもわかっています。
ダンスは、それぞれが何を「ダンス」と思うのか、その概念自体も広く、はっきりしていない良さと難しさがあります。振付家の中にも、演者の中にも、観客の中にもそれぞれに異なる「ダンス」がある中で、ダンスにおける「演出」ってみなさん何に対して(誰のダンスに対して) かけていくものなんだろう?『ダンス作品』をつくっている方とも今後このような話をしていきたいです。
私にとっての振付は、評価基準がないもの、ひとつの価値判断でカテゴライズされないもの (≒それぞれが異なった価値観・感覚で受け取ったり楽しんだり悩んだりするもの) の為にあり、演出はそのよくわからないものを、眺めてもらえるように (鑑賞できるように) かける魔法のようなもの。ここで、眺めてもらえる、鑑賞してもらえるかどうかの判断基準として、どうしても誰かからの評価や見え方のようなことを考える必要が出てきます。それにより、「振付」と「演出」の狭間でいつも私の中に矛盾する気持ち悪さが生まれていました。その気持ち悪さもひっくるめ、作品をつくることと思ってきましたが、抱え込まずに分業したり、自分ではない誰かと気持ち悪さや難しさを共有していくことで、創作の楽しさが増したり、作品の可能性が広がっていくのでは、と今回のリサーチを通して希望が持てました。
活動報告会では、6stepsの振付書を公開し、萩原くんに演出していただいたデモンストレーションを私と萩原くんで踊りました。印象深いのは、私の演出は演者を徹底的に「ひとり」にすることが重要なのですが、萩原くんの演出は「誰かと一緒に居る・影響を受ける・一緒に居る人と影響し合いながら踊るモチベーションが作られていく」というものでした。STスポットの階段を設えた時も、萩原くんは天井から木を何個か吊るしていて、遊びだよーって本人は言っていたけれど、階段にのぼってみるとその木が動きを助けてくれる空間を埋めるものになっていて、既にここから萩原演出が始まっていたのでした。小さな頃から私は、「ひとり」の時間の中で、自ら踊る(そこに存在する)モチベーションを作り、動き、生きていくことがダンス(に繋がっていく)であると感じながら大人になりました。この「ひとり」の孤独と自由に可能性を感じているので、自らの演出でも「ひとり」を選択しています。一方で萩原くんは「対何か、対誰か」というところを大切にしていて、この木村と萩原の場合の違いも、ダンスと演劇の違いとも言えなくもなく、今後も考え続けていくと面白いことになりそうな予感がしています。

ダンスと幸せ


もうすこし若かった頃は、よくわからない何か (ダンス) になりたかったし、今もよくわからない何か (ダンス) のために一生働いていきたいと思っていることは変わりません。でも、そのように生きる中で、自分や誰かの楽しさ、嬉しさ、幸せも大切だと心底感じるようになりました。それはコロナ禍の世界になったことも大きく、とにかく作品をつくらなくては、上演しなくては、ダンスを生まなくてはと無意識に焦っていた(←なぜこの焦りが生まれるのか?社会の構造?通例?縛り?評価?) ところから、色々諦めざるをえない時間を経て得た、自分なりのダンスと生きるヒントのようなことかもしれません。
振付を渡すことも、演出をかけることも自分が楽しく嬉しく幸せであったらいいし、振付を渡され、演出をかけられる側も楽しかったり嬉しかったり幸せだったらいいなと思うのです。
楽しい、嬉しい、幸せの概念ももちろん色々ありますし、その中には苦しさとか辛さも含まれていたりするけれど、それもひっくるめて、何のために振付したり演出したり、作品をつくっているかというと、究極「楽しさ」「嬉しさ」「幸せ」があるからだな、と今回の研究会を通してより思いました。
楽しかったです、とか
嬉しかったです、とか
幸せでした、とか

「ふーん」「あなたがそう感じるのはどうでもいいから」「そんなの聞きたくないし」「陳腐な表現」「そんなのプロじゃない」と思われたり、言われたりするかもですが、侮ってはいけないと思うんですよね、私は。「楽しい」とか「嬉しい」とか「幸せ」を。

そう思うのは、私がこのように ↑ なかなか感じられない人間だから、ということもあるのですが。笑。

一緒に考えようよ、と誘ってくれた演出家の萩原雄太さん、そして答えの出ない時間に寄り添い見守ってくれたSTスポットに心から感謝します。ありがとうございました。

劇場という場が、上演に加え、様々な表現者が集い交流できる場・機会となったり、表現はしないけれど眺めること、関わることが好きな方・興味がある方へ、開かれ、活用される空間であることを願いながら、今後もSTスポット、萩原雄太さん、そして様々な方と交わっていけたら。
第二回の研究会もあるかも!? 研究会を続けたい!

2022年8月26日 木村玲奈

集合写真 撮り慣れていない人たち


木村玲奈

振付家・ダンサー。青森市出身、東京在住。風土や言葉と身体の関係、人の在り方に興味をもち、国内外様々な土地で創作・上演を行う。近年はダンスプロジェクトのリサーチャーや身体ファシリテーターをつとめるなど、アウトリーチ・ワークショップを通じ、ダンスを介して幅広い年代の心や身体と向き合う。’20– ダンサー・WEBエンジニア・観察者・美術家・舞台制作者と共に『6steps』という団体を立ち上げ活動中。’19 – ’20 セゾン・フェローⅠ。’20 – 東京郊外に『糸口』という小さな場・拠点を構え、土地や社会と緩やかに繋がりながら発表だけにとどまらない実験と交流の場を運営している。
https://reinakimura.com

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