ST通信The Web Magazine from ST Spot

舞台芸術は「コンテンポラリー」なメディアへとアップデート可能か?-木村覚×福留麻里×村社祐太朗 鼎談|2018年9月

2018年9月19日(水)21:15STスポット

9月28日よりダンサー 福留麻里と演劇作家 村社祐太朗の2回目の共作公演『塒出』が上演されます。
公演に向けてダンス批評、BONUSディレクターの木村覚氏と鼎談を行いました。
木村氏には公演のフライヤーにテキストを寄せていただいて、その書き出しには
なぜいま〈上演〉という形式をとるのか?
とあります。
この問いについて、ダンスの批評家/ダンスの作家/演劇の作家の3名がそれぞれの取り組みから、上演すること、そして上演が持つ可能性を話しました。


-場をつくる取り組み
福留:今日はよろしくお願いします。
村社:木村さんにフライヤーに文章を書いていただいたじゃないですか。2月の福留さんとの共作の『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』は上演形態は従来通りだったと思うのですが、期間中に1日だけ上演した『建舞』以降、新聞家では場の仕組み自体を変えるっていうことに意識的に取り組んでいます。8月にSCOOLで上演した新聞家の公演でも大きなマスカーを敷いて4人でそれをシェアしてもらうかたちをとりました。自由席なんですけど、まだ4人になってないところにしか座れない。空いてるところに入れてもらうようになる。
木村:突然4人1組が始まるわけね。
村社:4人1組になった後に複数種類のポテチを準備して、各組に選んでもらうというのをやりました。しかもポテチの開け方を“スナックボウル開け”というものに指定したんです。それを私が実演して、その各組の代表にあけてもらうんです。
福留:私も観客で参加したのですが、“スナックボウル開け”意外に難しくて! だんだん結束力が出てくるんですよ。それと何種類かある中で、私の組はオーザックを選んだんですけど、「これ選んだのよかったね。」って組の中で会話が出てきたりして。
村社:上演形態を従来のものから少し変えることで、もう少し複雑なコミュニケーションが可能になるんじゃないかなと。同じ意味じゃないと思いますが、“場”というのをそういう風に考えています。
木村:新聞家の公演は、上演だけではなくその後の時間がとても個性的ですよね。残ったお客さんと話すんだけれど、観客も話すし、でも村社さん自身が大いにしゃべる場なんですよね。アフタートークってただのおまけとして用意している上演がほとんどなんだけれど、違うんですよね。作り手と観客とが同じ時間を共有する「上演」というフォーマットで、単なる慣習に従うのではなく、できることがあるのではないかという態度表明だし、何より「そこに自分が存在していた」と強く観客が意識できる仕組みとして興味がありますね。
福留:たしかに!客席でみんながどういう雰囲気でこの場にいるかなって観察すると、新聞家の公演は参加の充実度がすごく高く感じます。むしろ演者っぽいっというか。
村社:ちょっとイキイキしてますよね。
福留:そう。それがすごい。
村社:新聞家は常連というか毎回観に来てくれる方が多くて、それが有機的に機能し始めているように思います。そういう方々の「その場にどう臨むか、振る舞うか」って態度がある種、準備ができているので、初めて観に来た人もそれにのっかれるんですよね。伝播していくみたいな。実際はすごく些細なことなんですけど、継続していく意味があるなと感じました。
木村:アフタートークの価値を語っておきながら、実は僕自身はアフタートークに苦手意識があるんです。とはいえ新聞家の上演は終演後のトークまでがワンパッケージになってるから、残らないとちゃんと鑑賞した気持ちにならない。新聞家の持つ独自性のひとつであるこうした部分というのは、BONUSのディレクターとしてもとても興味深く感じています。

 

 

-観客との関係性
木村:昨年度、BONUSは「ワークショップ」をテーマに活動していました。ワークショップを考えるワークショップ、ワークショップをつくるワークショップなんですが、理想は観客がワークショップをつくるワークショップまでなったらいいなと思っていました。
なぜワークショップをテーマにしたかというと、観客という存在が気になっているからです。お金を払って、場所や時間に拘束されながら、しかし、暗がりの客席でぼーっと舞台を見つめている。そんな通常の観客って、パッシヴ(受動的)な状態で劇場に棲息している。そうした鑑賞の価値もあるとは思うけれど、世の中が急速に変化している中で、そうした観客像に無批判なままだと、舞台芸術はアナクロニズムに陥ってしまうんじゃないかと危惧してしまうんです。観客のポテンシャルをどんどん引き出すような仕掛けが舞台芸術から出てくれば、舞台芸術はアップデートできるんじゃないかと思ってしまうんです。
BONUSはワークショップをテーマにしたイベントを東京と京都でやりました。どちらも最後に観客というか参加者の方々に一言、二言話してもらったんです。その時間がとてもおもしろかったんですよ。なぜこの場に来たのか、今日どういう時間を過ごしたのか、自分が何を持って帰るのか。そういうことを話してもらった。それが内容の濃い、質の高い時間だなと思ったんです。観客の舞台に抱いた感想というのは通常の上演の仕組みの中では取り上げられないし、ましてやシェアなんてまずされませんよね。でも、観客という存在は、演出家やパフォーマーと一緒にその場を作る協働者なはずです。協力者であり、協働者でありうる。その割には、現状を見ると、観客の潜在的な力が十分に引き出せていないのではないかという気がするわけです。この状況が変わると上演芸術はしかるべき更新を達成できるのではないか。このことが、BONUSがワークショップをテーマに活動して出てきたひとつの結論なんです。
村社:なるほど。
木村:上演という形式はたいていの場合、演者側が試行錯誤してきたことの成果を披露するフォーマットとして使われています。良い面ももちろんあるけれど、稽古の中で試された多くの挑戦やその時々に生じたあれこれが、最終的に洗練された形でまとめられ、結果としてその後で起きていたこととは別物になって上演されるというのがほとんどですよね。その場にあった、雑多だけど豊かだったもの、カオティックだけど質の高い部分がクレンジングされて、舞台上のきれいに整ったものにしか観客はアクセスできないわけです。これは上演というものの危うさと言って良いのではないでしょうか。作家は上演という場で成果発表を志向しがちです。これとは全く異なる発想を僕らが持つことは、舞台芸術が創造的であるためにとても重要なポイントなのではないか。とくに観客との関係を、現状を批判しながら変えていかないとまずいのではと思ったりしているんです。
村社:そうですね。
木村:今考えていることがそうした内容なので、ああいう(『塒出』のフライヤーに寄せた)テキストになったんですけれど。
福留:うーん。なるほど。

-ウェルメイドからの解放
村社:木村さんのその意見に共感しますね。新聞家の稽古でも演者がいかに主体性を失わずにいられるか、というところを重要視しています。「上演はこうでなければいけない」などといったウェルメイドな上演を目指してしまう指標を取り除こうとします。かいつまんで言えば、私は主にテキストをどう扱うか、身体をどう扱うかっていう説明ばかりをして、「何をするのか」には触れないようにしています。それはそういうフリをしているんじゃなくて、本当に「何をするのか」わからないからそうしています。けれどそうすると続いて、じゃあなんでそれがわからないのかとか、そしたら何を指標に取り組めばいいんだとか、そういう話になります。その説明を怠らず、というよりその説明をとにかくしていく。
木村:注文をまちがえる料理店」って話題になりましたよね。認知症の人がウェイターやウェイトレスになって、間違ってオーダーされて頼んでないものがテーブルに届いたりするらしいんですよ。それは通常だとクレームの対象で、間違ったこととされてしまうんだけれども、「社会の中ではウェルメイドでなければならない」という意識から解放される、その武装を解除することで違う意識が生まれるという仕掛けなのではないでしょうか。先ほどの村社さんの話は、いかにウェルメイドを回避して、違うコミュニケーションを豊かにすすめることができるかってことの試行錯誤とも言えますよね。「ダメなもの」があった時に、僕らはどういうコミュニケーションを選び、それを実行できるか。例えば、社会のなかで困ったことがあると、すぐに行政や警察に電話してしまうとか、外部委託して処理してしまおうとしがちだけれど、僕ら個人個人には力があって、何かできることがあるはずなんです。なのに「できない」とか「誰かに任せちゃえ」と思ってしまう。
村社:たしかに。
木村:そういうアクティヴでいる力を僕たちはいつでも発揮できるはずなのに、その力を弱めてしまう仕組みに囲まれて生きていますよね。スマートフォンもそのひとつだと思うんです。「私はスマートフォン見てるので、あなたは視界に入ってません」みたいなふるまいの中で日々過ごしてるわけじゃないですか。
福留:そうですね。
木村:全員がそうした状態だと議論も生まれなくなりますよね。そういう傾向の中で、演劇あるいは上演というものが、社会の中でどんな役割を持つべきなのか。無邪気に今まであった形式の延長線上にそれを考えるのではない、今の社会の中に上演というものを意義づけていかないと「アンティーク」になってしまう。
村社:上演が日常とシームレスに機能がなくてはいけないと考えてます。上演という場所に来て、日常では目を向けているはずの複雑なものに目を瞑ってしまうっていうのはもったいないなと。上演において普段より楽をするっていうのは意味がないんじゃないかなと。
木村:事前に送ってもらった『塒出』の稽古記録のテキストに“貧しさ”について書かれていたじゃないですか。僕もフライヤーに寄せたテキストに“貧しい”って言葉を書いたけれど、今はテレビを見ていればキャプションだらけの説明だらけで、わかりやすくすることに良さやありがたみを人は感じていたりするわけですよね。笑いをめぐって大学生と話してても、「なんでこの芸人は面白いの?」って聞くと「わかりやすいから」って答えるんですよね。わかりやすいものにばかり取り囲まれているということは結構不幸なことだと思うけど、ある意味では豊かで優しい社会なのかもしれない。いろいろなサービスに支えられて、楽に生きられるんですから。極端に言えば、なにも考えなくても、笑ったり、ハッピーだなって思ったりできる社会。でもあえて言えば、貧しさが足りない社会なのかもしれない。だから新聞家の上演の難解さや複雑さっていうのは、ある人からみれば貧しさに映るかもしれない。なんでこんな途切れ途切れなんだ! とかね。でも、だからこそ、貧しいものはダメなんじゃないっていう主張や宣言に思えるんですよね。
だから逆に言えば間違えることの面白さや、安心して絶望する、苦労を取り戻すとか、そういう一種の逆説的に聞こえるような、でもそれは本当に切実に必要なもののはずで、その機会が奪われているってことにもっと僕らが自覚的であることが大事ですよね。混乱させられることをもう少しポジティヴに楽しめるようになれるといいなと思ってしまいます。こうした側面を上演芸術がうまく社会に発信することができたら、良いですよね。
福留:二人の話を聞きながら考えていたのが、例えば新聞家の意見会は普通のアフタートークの質疑応答より深く議論されているというか踏み込んでるなって印象があって。割とこういうことが起こることは珍しいと思うんですが。例えば先日のSCOOLの上演の時はポテチをシェアするとか、他の観客と団結して協働しなければいけない仕組みがあったけれど、上演を観るときは絶対的にひとりになる。新聞家の作品は、簡単には受け取れなくて、ある意味、客席全体と自分を切り離して、ひとりにならないと観れない。舞台上の出来事との関わりを強く持とうとしながら、影響を受けながら観ることに集中していて、強烈に孤独になれる。そのひとりになれることが大事な気がします。孤独の質が高いなと。そのことがアフタートークでの客席からの質問や感想や議論を深めている理由のひとつかもしれない、と思いました。そしていわゆる「舞台」でも、暗がりの中で孤独になる経験は、実は「舞台」の良い部分でもあるかもしれない、と最近思ったりします。

 

-人間に触れる複雑さ
木村:ところで、上演中に感じる村社さんのテキストのつかみにくさ、わかりがたさって「人間」と接している感覚に近いなって思うんですよね。人間に触れるって、そういうことじゃないですか。どんな好きな人といたってイライラすることがあるでしょう。言っていることがうまく理解できない、とか。でも不安にさせないような平坦なコミュニケーションの中だと、そういう苛立ちは起きない分、わかりがたさに出会えないという不幸が生じているとも言える。それだと内省が発生しないし、それだと劇場の暗がりで孤独でいることへの価値が高まっていかないですよね。
村社:新聞家の上演を観てイラつく人はいると思うんです。何でちゃんと喋んないんだって。でも意見会の時の隣の人が言った意見でハッとして、それが変わってくることもあると思うんですよね。そういうのがすごく面白いです。
木村:そういうことに僕らがどれくらい柔軟になれるか。そのことが社会を生きやすくしたり、安心して絶望できる社会にする大事なファクターである気がします。だからひょっとして村社さんのテキストの難解さを敢えて僕が「人間だ」と思うということは、人間全般が実は分かり難さを秘めていて、そのわかり難さをネガティブに評価するよう社会に仕向けられているけど、本当はそんな単純なものではないということに気付かせて、しかもただ演劇で表象するだけではなく、ディスカッションを含めた演劇以外の仕掛けで体験させたり、他人事じゃなくて自分の課題にまで落とし込むといった主体性を引き出したりしている。そこまでやろうとしているんだなって感じるんです。

-「わからなさ」にどう向き合うか
木村:世間的にダンスと言うと、全員が揃ってる綺麗な踊りがダンス、という認識ですよね。これって排除の論理みたいなこととすごく絡んでいて、揃ってないとダンスじゃないということにされてしまうことに僕らがどれぐらい自覚的なのかってことはすごく大事なことだと思うんです。
福留:みんなと揃ってることって快感なんですよね、きっと。それで夢中になると思うんですよ。ぱあーっと開かれる気持ちになるというか。
木村:最初の方で言った、学生がお笑いを見て「わかりやすいからいい」っていうのは安易なお笑い批評だとは思うけれど、わからないというものに対する端的な恐れや、自分が「わからないもの」になってしまうと排除されるかもしれない不安みたいなことが、若者の心のうちに潜在しているということかもしれないですよね。
福留:山崎広太さんが「例えば電車の中にダンス的な身体があったときに、わからない気持ち悪い怖いもの、排除されるものとして扱われちゃうけど、そういうものがもっと受け入れられるようになったら、普通にあったらいいと思いませんか」って言っていたことを思い出しました。


『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』撮影:金子愛帆

 

-「これはダンスじゃなくなるかも」
木村:二人の共作公演が2月に続いて行われるとのことですが、2月を経てどうですか?
村社:実は最初は福留さんのことをあまり知らないまま、2月の共同制作はスタートしたんですけど。俳優だと演出家像のようなものがあると思うんですけど。例えば演出家がいろいろと決定権を持っている、とか。でも福留さんはどう掘ってもそういう認識がないですね。福留さんは、おそらく他の現場でもいろいろとはっきり言われる方なのかなと思うんですけど。
福留:そうかな? どうだろう?
村社:でもそれは悪い意味じゃなくて、何か問題があるってことをはっきり言わないと前に進まない、それに目を瞑って進めても面白くならない。だから福留さんとのクリエイションでははっきり言っていい、っていうのが当たり前にあってありがたいなと思っています。経験も実績も年齢も違う中で、何が大事かってはっきり言い合えるっていうのはなかなか稀有な現場なんじゃないかと思います。
福留:あまりそういう意識はなかったですけど、2月の公演の時に動くっていうことに対して最終形になるまでのプロセスの中でいろいろな葛藤がお互いの中にありまして。私の場合はダンスってクレジットしてるのにダンスの側面で見たら踊ってないって絶対言われるなって思いがありました。テキストにあわせて振りをつくって発話しながら踊るってことも試して、それはそれで悪いものではなかったんですけど、村社さんがテキストに対して行っている「意味を取る」ってことをぼやかすことにはなってしまう。動きと言葉を合わせていくときに村社さんが「これはもしかして面白くなるかもしれないけど、それはそれ止まりだ」って言って。確かにその時の動きと言葉の組み合わせはキャッチーではあったかもしれないけど、それでは二人でつくる意味がないなと思って。そこでダンスかダンスじゃないかっていうジャンルのことよりもテキストの意味を取る、向き合うってことが大事だなって思いました。
村社:そんなこと言ってたんですね(笑)。
福留:言ってたよ! それで結構ムカーときたりもしてたんですけど(笑)。でも動くことにこだわることや執着することがいい場合もあるけれど、2月の時はそれを一度、捨てるという選択をしました。ただ、村社さんのテキストを発話する時に、自分の中で起こる運動がダンスしてるときの感覚にすごく近かったんです。だから最終的に2月の上演は、そこでやっている身体のブレのような動きを今の私はダンスって呼ぶわけにいかないと思ったけど、発話することに伴う自分の中の作業や運動は、ダンスでやってることと結びつくから、舞台の上で踊れなかったという感覚は全くなくて。身体の動きではないけど、自分にとってダンスと同じ感覚は強くありました。
木村:福留さんの「これはダンスじゃなくなるかも」っていう疑問は、観客が思うところのダンス像、ある種の観客からの偏見に応答しなきゃいけないというプレッシャーもあったりしますよね。それこそダンス公演と銘打った時に、「ダンス」っていう言葉を「シェアされている何か」と関連付けていかなきゃいけないと。だからそれがすごくジレンマで、関連付けただけではその通りに当てはまって答え合わせができたっていう話にしかならない。だから芸術活動の矛盾点なのかもしれないけど、どうしたらその答え合わせから脱出できるのかということは差し迫った真摯に考えなきゃいけない問題ですね。動画を送ってもらって、あらためて『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』を観たんですけど、やっぱり福留麻里でないと出てこない身体性がそこにあって。一見すると、踊ってないとかアクション面でそういう風に思ったり言ったりする人もいるかもしれないけど、この身体ってなんなんだろうって思うような何とも言えない佇まいで、この身体が持ってるユニークな部分はあるよなと観返してても思いました。ダンスを観てるときのこの人の身体の中に何が起きてるんだろうと考えるんですが、この人の身体とか意識はどのように関連しているんだろうというところを見てしまいますね。つまりいかに複雑な動きをしていようが頭の中で考えていることをこちらが類推して、その類推が凡庸であれば、どんな複雑な動きでも凡庸に見えてくる。でも何か得体の知れないものとアクセスしているなとか、何を考えているのかってことへのこちらの読みがスムースに進められないと、豊かな時が生まれているって思うんですよね。

-どれぐらい自由でいられるか
木村:今日は広く言って桜井圭介さんが提唱した「コドモ身体論」の2018年版みたいな話をずっとしてたんじゃないかと思うんですが、かつて桜井さんは一種アイロニカルに、あえてダメを志向するものとしてある種のコンテンポラリー・ダンスを評価したんだけれど、今は、ベタにダメとされてるものにちゃんと向き合わないとまずいと思うんです。
村社:だからダメじゃない主体がダメを演じるじゃなくて、ダメじゃない主体っていう幻惑に騙されないというか。
木村:そういう価値の支配からいかに自由でいられるか、っていうことかもしれないですね。今回の新作公演について具体的な話はあまりしなかったのですが、村社さん、福留さんの二人が何を大事にしているか、そこに興味持って来てみようと思ってもらえたら幸いです。こういうお話をお二人とできて、すごくいい時間だったのではないかと思います。

 

取材日:2018年8月8日(水) 構成:萩谷早枝子


【プロフィール】
木村覚(きむら・さとる)
1971年千葉県東金市生まれ。美学研究者、ダンス批評。日本女子大学人間社会学部文化学科准教授。近代美学を専門としながら、コンテンポラリー・ダンスや舞踏を中心としたパフォーマンス批評を行っている。2017年までartscapeにて身体表現のレビュー担当。主な著作として『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』(メディア総合研究所)がある。2014年より「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSのディレクターを務め、フレッシュなダンス創作の種を撒いてきた。

福留麻里(ふくとめ・まり)
ダンサー・振付家。1979年東京生まれ。2001年より新鋪美佳と共に身長155cmダンスデュオほうほう堂として活動。独自のダンスの更新を試みる。2014年よりソロ活動を開始。日常的な仕草やくり返せる動き、物の感触や佇まい、無作為なスピード感など、身近なこと単純なことに動きのはじまりを見つけて踊る。

村社祐太朗(むらこそ・ゆうたろう)
新聞家主宰。演劇作家。1991年東京生まれ。2014年に作・演出した小作品が3331千代田芸術祭2014パフォーマンス部門で中村茜賞を受賞。テキストを他者として扱うことで演者に課せられる〈対話〉をパフォーマティブな思索として現前させる独特の作品様態は、演劇批評家の内野儀に「本来的な意味での演劇」と評された。作・演出した作品が批評誌「ゲンロン」や雑誌「美術手帖」にあって紹介されるなど近年注目を集めている。近作に新聞家『白む』(2017)、ダンサーの福留麻里との共作『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』(2018)など。


【公演情報】

福留麻里×村社祐太朗 新作公演 『塒出(とやで)』

2018年9月28日(金)-9月30日(日)
詳細:https://stspot.jp/schedule/?p=4657

戻る